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ポールマッカートニーの思い出

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ジョンレノンにしろ、ポールマッカートニーにしろ、最愛の女性を得ることによってその音楽性の方向も変わっていったのではなかろうかと?僕は推測する。もしもジョンにヨーコさんの存在がなかったならジョンはロックンロール、心の壁、愛の橋やマインドゲームスのような独自のジョンらしいアルバムがもっともっとつくられたのではないだろうかと?思う。また、ポールもリンダの存在がなかったらあれだけのヒット曲はなくて、もとビートルズの一人としてのロックのあるべき方向性に進んだのではないのだろうか?そんなことを僕は考えてしまう。ヨーコさんもリンダも、もともとはミュージシャンとは無縁の存在だったし、世界最高峰の音楽家と共にステージにたつなどということはありえない話だったと思う。ジョンにしろポールにしろ、最愛の妻を世界中にアピールした。僕は子供の頃、それが素敵なことだと言う思いは、さらさらなかったし、私情を仕事にもちこむなんてロッカーとしてあるべき姿ではないと思っていた。巷では、それが理想的な夫婦関係とも言われていたりしたが、僕は子供の頃、そういうジョンやポールがうっとおしいと感じていたこともあった。ジョンの横には必ずヨーコさんがいた。ポールの隣には必ずリンダがいた。音楽専門誌でとりあげられる写真にはいつもそうだった。小学生、中学生の頃の僕は、それがとても変な人たちだと写っていたのだった。ポールマッカートニーはバンドオンザランのよく年に名盤ビーナス&マースを発表する。1975年は、ポールマッカートニー&ウィングスがいよいよ初来日のときだった。しかしチケットは発売されたが、麻薬所持でポールは来日できなかくなり、公演は中止に終わったのだ。この頃、僕は中学3年生だったのでよく覚えているが、当時、大学生になっていた次男は、このチケットを手に入れ、僕に自慢げに話していたのを覚えている。兄は公演が中止になっても、払い戻しはせずにこのチケットを記念にもっておくと当時、話していた。1980年にもポールは同じようなことがあり、いよいよ今度こそ来日公演だったが、成田空港でやはりポールは麻薬所持で入国できずに公演は中止になった。僕も次男の兄もポールマッカートニーを始めてみたのは2002年の東京ドームでの公演だった。僕は兄にチケット購入を頼まれ、初めてコンサートに兄と行った。次男の兄にとっては憧れのポールだったし、僕はそれほど期待などしていなかった。しかし、コンサートが始まると、僕が観たこれまでのどんなアーティストのライブよりもものすごいものだった。ただただ、僕は感動した。兄は、1曲目から最後のアンコール曲までたえず歌っていたし、感動し涙していた。帰りに記念にと兄はグッズコーナーで全てのグッズを購入していたが、僕はどれもこれもダサいデザインのポールのグッズはひとつも購入しなかった。僕はコンサートの帰りに、ジョンが生きていたら、ジョンも観たかったね!と話すと、兄は、ジョンはロックだから興味ないと、ぽつりと話していた。ああ、この人、ホントに根っからのポール信者なんだとそのとき改めて思ったことだった。コンサートの帰り、あの1974年に、この次男にウィングスの初めてのTV放送を見せてもらえなかったことが蘇ってきた。なんとしてでも一人であの放映を見た兄が、この言葉に全て集約されていると思ったのだった。ジョンはロックだから興味ない!!・・・・・・・・・・・この人、ほんと、あの時、僕にはポールを見せたくないのではなく、一人で楽しみたかったんだと!そう思った。でも、あの時のことは、僕は生涯、許すことはない!!ポールの初めてのTV放映を見せてくれなかった、この次男の兄のことは、絶対に許せない!!
by saika123 | 2011-08-29 10:26
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