LIFE STYLE CREATION FOR MEN'S

カテゴリ:美術( 60 )

ロックとファッションとアートな日々

1960年代後半、ロック・サウンドの爆発的な流行と共に登場したサイケデリック・アートは、コンサート・ポスターやレコード・ジャケットを通して視覚的に若者の心を掴んでいった。現在ではかつての扇動的なサブカルチャーの枠を超え、ファイン・アートとしての地位を確立している。なかでも当時を代表する、ヴィクター・モスコソ、リック・グリフィン、スタンリー・マウス、アルトン・ケリー、ウェス・ウィルソンら五人のイラストレーターは<BIG 5>と称され絶大な人気を誇っている。

<Victor Moscoso/ヴィクター・モスコソ>1936-
グリフィンと同様アメリカのアンダーグラウンド・コミックスの草分け的ライター。(ヒッピー・ムーブメントと共に登場した「ZAP COMIX」等。ロバート・クラムもその代表的ライターの一人。) キャッチーなイメージデザインには定評があり、ジェリー・ガルシアのソロ・アルバム・ジャケットなどでも有名。1978年に東京国立近代美術館で催された「20世紀アメリカのポスター展」では、アンディ・ウォーホルやピーター・マックスの作品と共に展示された。

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Victor Moscoso “The Cahmbers”
Neon Rose #12 Steve Mann AT THE MATRIX
60年代サイケデリックアートの代表作 
1967 1st printing


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Victor Moscoso “FLOWERPOT” FAMILY DOG No.86-1
Blue Cheer, Lee Michaels, Clifton Chenier
60年代サイケデリックアートの代表作 
1967 1st printing

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Victor Moscoso “Junior Wells and His Chicago Blues Band”
Steve Mann AT THE MATRIX
「Moscoso」のクレジットが入ったロックポスターとしての第一作品
1966 1st printing

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Victor Moscoso “The Blushing Peony”
An extension of your skin the Blushing Peony
ヘイトアシュベリーにあった店の広告として制作された作品
1967 1st printing
 
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“HAIGHT-ASHBURY SPRING MOBILIZATION CLEAN -IN”
Victor Moscoso
Neon Rose により一度だけコンサートの際に印刷された
1967 1st printing

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Victor Moscoso “Otis Rush ”
Neon Rose #8
1967 1st printing

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Victor Moscoso “Rites of Spring. The Cloud”
Neon Rose #11 1967 1st printing
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by saika123 | 2013-01-17 16:54 | 美術

ロックとファッションとアートな日々

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Grateful Dead/The Golden Road(1965-1973



スタンリーマウスの作品とともにアメリカンロックの歴史があった。彼のつくりあげたレコードジャケットやポスターなどのグラフィックは当時中学生だった僕の胸を熱くしたものだった。

STANLEY MOUSE  スタンリー・マウス

1940年アメリカ生まれ、本名はStanley Millerスタンリー・ミラー。ディズニーのカリフォルニア・スタジオで働く父を持つスタンリーは、ジュニア・ハイスクール時代に「マウス」のニックネームがついたという。その頃から音楽好きだったマウスは、すでに16歳の時にはR&Bを聞くため飲み屋へ入り浸っていた。ある日その店のビルが塗り替え予定だというので、そこへ仲間達と共にロゴをペイントしたらしい。それはかなりの傑作品だったが、ついついサインを入れてしまったため、学校(ハイスクール)に見つかり退学になったことがあるという。その後デトロイトのアートスクールへ通いエアブラシを習得したマウスは、Tシャツにエアブラシでレタリングやペイントをするようになり、しだいにそれで生計を立てるようになっていった。その後1965年、サーフィン・ブームに沸き、ペイントTシャツがよく売れるサンフランシスコへと向かったマウスは、その後の人生を変えさせられる2人の重要人物と出逢う。その1人は以降仕事のパートナーとして、共にこの世界で活躍する写真をメインにしたデザイナーAlton Kelleyアルトン・ケリー、もう1人は、サーファーTシャツの世界では既ににMurphというキャラクター・イラストで大人気だったRick Griffinリック・グリフィンである。その後66年シスコで起きたサイケデリックのムーヴメントの中で、グリフィンが大きな成功を収めてゆくと、マウスとケリーも後を追うようにケリー・マウス・スタジオを設立し、ロック・ポスターの製作を始めた。そして60年代はグリフィンと共にサイケデリック・アートの第一人者としてその名を馳せたのであった。この頃、マウスが描いたクリームのポスターをエリック・クラプトンがいたく気に入り、自分のロールスロイスにペインティングさせたという話は有名だ。またケリーとは70年代以降もたびたびコラボレートし、79年に共作したスティーヴ・ミラー・バンドのカヴァー・アートでは、見事グラミー賞を受賞している。マウスは現在でも手作業によるイラストを描き続け、92年には「Freehand: The Art of Stanley Mouse」という本も出版した。



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Blind Faith/Blind Faith
1969年 RSO/Polydor
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The SteveMiller Band/Book Of Dreams
1977年 Capitol
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Journey/Escape
1981年 CBS/Sony
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The Doobie Brothers/Sibling Rivalry
2000年 Atrantic/Victor
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Starship/ Greatest Hits(Ten Years And Change 1979-1991)
1991年 BMG
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Skyfish/Skyfish
1995年 Global Pacific

マウスの作風は、一貫した手作業によるエア・ブラシで描き出される架空の世界だ。それは時に写真と組み合わされることもあり、その場合には、彼の良きパートナー、ケリーと共同で作業が進められる。上にある代表作のうち、一番古いブラインド・フェイスのものは、まだ本名のスタンリー・ミラーでクレジットされている。これ以前には、サイケデリック・ブーム期のポスターやグレイトフル・デッドのジャケットをリック・グリフィンから引き継ぎ「American Beauty」などの名作も生んでいる。しかしながら、やはりマウスのオリジナリティが最大限に発揮されたのは、「インフィニティ」「エヴォリューション」「ディパーチャー」といった、いわゆるジャーニー出世3部作や上にもある同大ヒット作「エスケイプ」などに見られる古代の神や伝説、宗教などをモチーフにしたイラストであろう。ちなみに「エスケイプ」に描かれているのはScarabスカラベで、古代エジプト人が崇拝したコガネムシの一種(フンころがし)。別名神聖コガネムシとも言い、お守りとして宝石にこの虫の形を彫って持ち歩いたと伝えられている。
マウスの作品には、その他にもグラミー賞を受賞したスティーヴ・ミラー・バンドなど、名作はいくつもあるのだが、印象深い一連のジャーニー作品の前には、どれも霞んでしまう。また近年では、故リック・グリフィンに成り代わり、サイケデリック系アーチストのコンピレーション・アルバムなどでも大活躍している。上のグレイトフル・デッド12枚組BOXセットのカヴァーは、グリフィンの作品で有名になったガイコツと名作「American Beauty」で自らが描いたバラを組み合わせた近年の名作だ。
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by saika123 | 2013-01-17 16:44 | 美術

ロックとファッションとアートな日々

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やばいくらいカッコイイ、ウイリアムクラインの写真!画像の中に見いだすクラインの構図や絵的な景、クラインの脳みそは、もはや写真ではなく芸術をカメラで描いていたんだ


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ウィリアム·クラインの伝記

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ニューヨーク
ウィリアム·クラインは、1928年にニューヨークで生まれました
貧しいユダヤ人移民の家族。 父親の
衣料事業は、1928年事故で折った
しかし彼の親戚 - 主に弁護士 -
裕福だった。
クラインも経験した30年代に育っ
学校の生徒の両方から、最初の手の反ユダヤ主義
そして路上で、彼はアイルランドの中でユダヤ人の少年だった
近所。 彼はいつも大衆文化から疎外されていると感じた。
彼の友人は明るい、皮肉として彼を覚えている
芸術と人文科学が好きだった子供。
彼は、近代美術館MOMAのことを敬愛して
その上に12歳から彼に第二の家のようだった。
そして14歳の時、3年先、彼の
クラスメート、彼はニューヨーク市立大学に在籍
社会学を勉強する。 18歳の時、彼は2年を費やし
ドイツとフランスに駐留する米軍内
無線オペレータとして、彼のコースを完了する前に。
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パリ
1948年に彼はパリで 'ソルボンヌ'に在籍。
1949年、クラインはロートで簡単に学び、
フェルナンレジェ。
レジェは反乱に彼の学生を奨励し、拒否する
適合とブルジョア価値観、それらをことを伝える
アトリエやギャラリーは廃止され、彼らこと
外に出て、路上で動作するはずです。
ジャンヌ·フロリンと結婚した後、彼はに残ることにしました
フランスのパリで、まだ在住。
50代前半クラインスタイル時にスペアであった、
抽象と建築。
この時期から絵は深く影響を受けていた
グラフィック、バウハウス、モンドリアンと導いマックス·ビル、バイ
絵画壁画をしようとするクライン。
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ミラノ
1952年にクラインは "ピッコロでミラノの2つのショーを持っていた
劇場 'との'ガレリアILミリオーネ "とし始めた
、建築家アンジェロ·マンジャロッティとのコラボレーション
誰が可動パネルに壁画を依頼
それは、部屋の仕切りとして使用することができます。 同じ年に、
彼はイタリア建築をcollaboratewithし始め
雑誌 "ドムス"。
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写真撮影
写真撮影を使用して、アーティストとして、彼は再発明するために着手した
写真原稿。
彼の写真は、しばしばピントがぼやけたり外に、彼の高コントラスト
印刷されます(彼のネガは、しばしば深刻な過剰露出していた)、
ショックを受けて、高穀物フィルムと広角の彼の使用
確立された写真の世界の秩序と彼
アンチカメラマンの写真家としての名声を獲得した。
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モホリ=ナギとケペスに触発され、彼が始めた
抽象絵画や写真を並置を使って実験。
アレクサンダー·リーバーマン、 '流行'アメリカの画家と監督
クラインのパリジャン彫刻ショーの一つで出会ったクラインと
両方の彼の彫刻(キネティック光パネル上で、魅了されました
感光性ガラス)とクラインは最近まで持っていた写真で
取り始め。 彼はクラインがニューヨークに来るように誘わ
仕事を話し合う。
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ニューヨークに戻り
1954年までに彼は訪問のためにニューヨークに戻りたい気になったと
クラインが到着したとき、リーベルマンは何だろう、彼は彼に尋ねた
本当にやりたい。 彼の答えは、ニューヨークの写真を撮りました
新しい方法で、写真日記のようなものインチ
6年間ヨーロッパに住んでいたアメリカ人として、
彼がハイブリッドになっていた - そして彼にニューヨークは妙だった
外国人。
リーベルマンが合意、流行はこれを可能な資金を調達するでしょう
機能、およびクライン - ファッション写真を撮影したことがなかった
前 - 契約として与えられた、彼の驚きに、またあった
雑誌のファッション写真家。
クラインは言った: "私は民族誌学者を信じさせた。
エクスプローラのようにニューヨーカーを治療するズールー族を扱うでしょう -
零度は、rawestスナップショットを検索
写真の。 '
この本 'NEW YORK'( ' - 人生は、あなたのために良いと良いです
ニューヨーク...)はスキャンダルだった..
原油、 - '流行'は、市内の彼の見解にショックを受けた
積極的かつ下品な - と他の人が、それを見た
写真のように無能な、彼は見つけることができませんでした
アメリカの出版社。
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写真集
彼はパリに戻って仕事を取っていますが
写真の設立は、同様の見解を示した
彼は、フランスの出版社、エディションseuilを見つけることをどうにかして
誰がそれを信じて、1956年にそれを持ってきた
(1995年に再発行された)。 それはまた、イタリアで出版された
同じ年。
クラインの本はナダール賞を受賞しました。
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1960年から1964年まで、彼は他の3冊の本を生産
写真撮影:
'ローマ'(1960)、 "モスクワ"(1964)、 "東京"(1964年);
すべては、生、粗く、旋回まだ殺風景なイメージに満ちている。
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ファッション写真
1955年から1965年までクラインは流行のために働いた。 彼が好ま
通りでまたは場所で彼のモデルを撮影する。
彼は、特に衣服やファッションに興味がなかったし、
reasearch絵はプロセスを作るためにこの機会を利用し
ファッションに新しい技術を導入することにより、
広角の使用や長期焦点を含む写真撮影、
レンズ、フラッシュ、複数を組み合わせる長時間露光
ファッション技術革新の分野におけるエクスポージャー意思
写真撮影。
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フィルム
1965年から80年代前半に、彼は写真撮影を断念し、
主に様々なドキュメンタリーを作って、映画に集中して:
(1958年)、 "光によるブロードウェイは 'あなたはポリーmaggoo誰ですか?" (1966)、
'ミスター。 自由 "、"モハメド·アリの最大の '、'少し
リチャード·ストーリー "(1979)、 '救世主'(1999)。
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撮影に戻ります
クラインによる1980年代の静止画撮影に戻った
彼の初期のwork.his写真の新たな関心
この期間のクローズアップの彼の使用によって特徴づけられる
と広角レンズ。

90年代の間に彼はミクストメディア作品を作り続け
絵画や写真を使用しています。 彼はハッセルブラッドを受け
彼の映画の賞や各種回顧展だった
ニューヨークと日本で開催されました。 彼が受賞しました
agfa-bayer/hugoエアフルト賞やファッションのイン&アウト作成、
図面、写真などを含む混合メディアプロジェクト
ロンドンでのショーと同時に公開された映画、
パリとニューヨーク。 1997年に彼は新しいrephotographed
ニューヨークとバルチェロナとパリでのショーがありました。 1999年
彼は王室によって "世紀の勲章"を授与されました
ロンドンの写真協会 "。
現在彼が住んでおり、パリで働いています。
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近年の個展
ガレ​​リアカルラソッツァーニ、ミラノ、イタリア2000
スコティッシュ·ナショナルギャラリー、エジンバラ、スコットランド、1999
FNAC、パリ、フランス1999年
壮大な馬術学校、モスクワ、1998
ジェーンジャクソンギャラリー、米国アトランタ、1998
プーシキン美術館、モスクワ、1997
サンジェルヴェセンター、ジュネーブ、スイス、1997
カイシャ建国、マドリード、スペイン、1997
deichtorハレン、ハンブルク、ドイツ、1997年
pouchkine博物館、モスクワ、ロシア1997
のhamiltonsギャラリーやイギリスの映画協会(英国、ロンドン)1997
fondazioneナツィオナーレ·デッラfotografia、ト
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by saika123 | 2012-11-26 14:51 | 美術

ロックとファッションとアートな日々

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20代の頃最も影響を受けたのがウィレムデクーニングでした。デクーニングのタッチそのものにやばいくらいに浸透していきました。対象があるのか?対象など問題ではないのか?デクーニングとの出会いによりもっとも具体的にペインティングの方向性を教えてくれた画家のひとりでした!


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「女、無意識への道標」ヴィレム・デ・クーニング 


Willem de Kooning
1904-1997 1904 オランダ、ロッテルダムに生まれる。
192622歳 アメリカに密入国。
1930頃アーシル・ゴーキーと知り合い影響を受ける。
1948 ゴーキーが死亡し転機を迎える。
1950-52 「女・1」を制作する。
195349歳シドニー・ジャニス画廊で「女」シリーズ個展
199793歳
死去
 

「女1」 1950-52


「女1」 Willem de Kooning
1950-52

画面上の「女」のイメージは、作者の恋慕と憎しみの交互の激情に引き裂かれ、またかき集められずたずたにされながらなおも私たちに微笑みかけてさえいるようです。
その肉体はかろうじてもとのかたちを止めていますが、描写というよりは破壊に近い、あまりにも激しい彼のタッチにさいなまれ骨格を消失したかのように画面いっぱいに広がっています。
画家はただ描くアクション行為にその成り行きをまかせ、あえてその激情の噴出を手加減しようとはしていません。かと言って「女」という制作の最初にあった主題を葬り去ろうというわけでもなさそうです。
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「わたしはいつも、若いひと、美しい女という考えからはじめたが、それが変化するのに気がついた。誰かがいつも出てくるのだ。中年女性がね。あんな怪物を作るつもりはなかったのだ」
デ・クーニングは制作の経緯について上のように述べています。彼の制作は、ポロックと同じオートマティズムの手法を取っています。しかし、彼はポロックが捨てたイメージを決して手放さなかったのです。「女」のイメージは彼の制作の入り口でありまた出口でもありました。彼は自らにのみ開かれたその通路をとおって彼の表現の源泉である無意識の世界へ降りていき、また戻ってくることができたのです。
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デ・クーニングのオートマティズム

先ず、デ・クーニングの制作の過程を追ってみます。
彼は最初に「女」という主題をもうけます。それはふと目に止まったピンナップの断片的なイメージを出発点に定めただけかも知れません。
主題と言っても、それはまだ制作に取りかかるきっかけに過ぎません。主題の概念はまだ入り口だけが分かる空っぽの入れ物のようなものです。用意したカンヴァスも主題も空白のままです。彼はその空白の「女」という主題とカンヴァスに、浮かんでくるあらゆる思いを絵の具に乗せてぶつけていきます。
無論、彼は主題を美化してまとめるつもりはないのです。ちょうど、精神分析の自由連想法のように、思い浮かんだままを描くアクション行為に託して画面に重ね、あるいは削りとっていくのです。
制作が進むにつれて、無意識の退行がすすみ、絵はあらぬ方向にむかいます。こうなると、彼にはいつどこに完成が待っているのか検討がつきません。彼にできるのは、自らの無意識が再び自我に統合され、ある納得が訪れるまで、描くアクション行為を続けるしかないのです。気がつくと、彼が等身大のカンヴァスに取りかかってから二年間の月日が流れていました。
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ゴーキーとの出会い


Arshile Gorky
1904-1948
一九二六年、オランダで学業を終えた二十二才の若きデ・クーニングは密かに渡米し、あこがれの新天地で、その現実との落差にうちひしがれながらも、貧困のうちに画家を志します。その彼に大きな影響を与えたのがゴーキー(1904-1948)です。彼らが出会ったのは、一九二九年頃、折しも、大恐慌による空前の不況のさなかでした。後にデ・クーニングとともに、抽象表現主義の両雄とみられるようになるポロックがニューヨークに出たのもちょうどこの頃です。

ゴーキーは同年齢ながらデ・クーニングにとっては父のような大きな存在だった。
デ・クーニングと同年齢のゴーキーがアルメニアから戦火に追われた難民としてニューヨークに渡ったのは、一九二○年、彼が一五才のときです。ゴーキーは若くして肉親を含むアルメニア人の虐殺、 親しんだアルメニアの美術の破壊を目の当たりにしました。おそらくその深い傷を癒すには絵を描くことしかなありませんでした。
彼は、貧困のなか、独学で絵を学んだ彼は二〇才の頃にはすでにグランド・セントラル・スクール・オブ・アーツで教えるようになっていました。彼はデ・クーニングにとっては、ニューヨークでの画業と生活の先輩でした。ゴーキーのアトリエ近くに身を寄せたデ・クーニングは、ゴーキーの画業の足跡をたどるように絵画の習作を繰り返しました。

ゴーキーの表現 


「花咲く水車小屋の水 」1944

「私自分の絵画を通じて、故郷に忠実であると信じている。」と語ったのは、かつてロシアを去りパリを制作の場としたシャガールです。「アルメニアの芸術に満ちあふれたばしょに生まれ、育つことができたぼくは、なんという幸運であり、光栄だろう。」と語るゴーキーはシャガール以上に失われた故郷に忠実でした。彼が重ねるヨーロッパ近代絵画の検証は、失われたヨーロッパの果てしない追体験でもありました。

彼はピカソやミロの方法を踏襲し、彼らの再現性をとどめた絵画の延長上に故郷で開花するはずだった自身の近代を見いだそうとしていました。ただし、それらは彼の切なるノスタルジーをもってしても終焉した近代の方法であることには変わりはありませんでした。
現代都市に身を置く彼には、それらの画風のすべてを取り込み、めまぐるしくそれらを変換しつづけるしかありませんでした。そのめまぐるしい変換は、彼をオートマティズムに近づけ、彼の表現を後の抽象表現主義の成立する地点に最も近い位置まで押し上げていきました。

ゴーキーの死 

四〇年代前半までのデ・クーニングはゴーキーの考え方に心酔し、作品の見分けがつかないほどゴーキーに同一化していました。そのままいけば、彼はゴーキーの影のまま終わる存在でした。ところが、一九四六年、度重なる不幸がゴーキーを襲います。アトリエの火災による作品の消失、癌の発病、交通事故で首を骨折、その後遺症による手の障害、等々。あまりの悲惨さに妻は娘をつれ彼のもとを去ります。一九四八年、ゴーキーは、見舞いに訪れた友人たちを送り出し、アトリエで自らその命を絶ちます。
デ・クーニングは、かけがえのない師であり、朋友でもありながら、あたかも父のごとく彼を導き支配した人物を失います。ゴーキーの死は、デ・クーニングにとっては、上位自我のようにあった人物の死でした。その死は彼にとっては、結果的には、ヨーロッパ近代絵画の呪縛からの解放でしたが、異国の現代都市での精神的なよりどころの消失でした。
ゴーキーの死後、デ・クーニングは、一人アトリエにこもり、用意した等身大のカンヴァスに向かい、「女」の制作に二年の時を過ごすのです。あたかも精神の自己分析であるかのような二年間の制作を終え、彼は自らの自我の統合と新たな表現を手にしました。
デ・クーニングの「女」が、もう一方のポロックの表現とともに、抽象表現主義の幕開けを告げました。

ポロックとデ・クーニングその無意識概念の違い

ポロックとデ・クーニングは、抽象表現主義の双璧と言われています。ポロックが一瞬の集中に全力を傾け、時代を一気に駆け抜けた感があるのに対して、一方のデ・クーニングは、その後の時代のめまぐるしい表現スタイルの変化にも動じることなく、彼の表現スタイルを保ち続けました。
ポロックの一瞬の集中とデ・クーニング持続の違いをたどっていくと、両者の無意識概念の違いに行き着きます。ポロックは、ユングの無意識を取り、自身の無意識に、自然、人類の歴史への通路という過重な意味を負わせました。その過重さが、彼が自殺とも取れる事故で世を去る一因となりました。
一方、デ・クーニングの取った無意識は、フロイトのそれでした。「女」という主題をたどる制作は、ちょうど彼の母子関係に焦点を当てた自己分析の位相にあります。彼が無意識に投げかけた主題は、言わば彼の無意識の等身大のおおきさとしてありました。そのため、彼は破綻することなく制作を持続できたのです。
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相違する二人の無意識

デ・クーニングにとって、制作は、自身の無意識への通路でした。彼は二年間におよぶ「女」の制作によって自身の固着 のありかをつきとめ、彼の固着にまつわる、ことのすべてを理解したのです。抑圧されていた固着は苦痛の源でしたが、彼にとっては同時に、イメージが沸き上がる表現の源泉でもありました。彼はすでに解消した固着を捨て去らずそのイメージを表現の源泉として温存しました。  かつての固着点は苦痛の震源であることを止め、言わば、デ・クーニングの制作がたどり着く母港のようなものとなりました。その後の彼の制作は、そこに至る無意識の迂回路をさまざまに作り出せばよかったのです。彼自身がその制作を「俗悪のメロドラマ」と呼ぶように、筋書はちがってもたどりつく結論はいつも同じです。おそらく、日常から表現への没入も、表現から日常への帰還も、ポロックのように過剰な緊張や苦痛を強いる困難なものでなかったのです。入り口と出口が知れた自身の無意識を、彼は易々と出入りしました。

一方、ポロックの無意識の固着点はあまりにも強大な両刃の刃でした。彼の固着は表現の源泉でしたが、その直視は自身の存在危うくするものでした。ポロックには、彼の無意識への没入が世界の無意識へとつながるいう意義づけ、自身の拡大解釈が必要でした。その設定は現実の彼の渇き、みじめさを隠し、彼を巨人のごとく尊大にさせましたが、当然、絶えず現実から覚醒をせまられる虚構でした。ポロックは自ら設定した虚構と現実の落差にさいなまれ、固着をますます強大にさせ、それに抗い切れず破綻をむかえます。
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内面から噴き上げる憎悪

デ・クーニングの抽象表現主義は憎悪の表現です。彼が主題を「女」と定めて制作アクション行為に向かう時、彼の内面から噴きあがりその主題を満たすのは憎悪でした。それは単に「女」への憎悪だけに止まらず、自分自身に対する憎悪、自身の欲望に対する憎悪、自身を取りまく世界への憎悪でした。彼はそれらを描くアクション行為にのせて存分に噴き出させます。デ・クーニングのオートマティズムによる制作は、憎悪の噴出の大集合となりそれが一区切りした時が終りです。
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近代の憎悪の表現、例えばムンクの「叫び」は、まだ自然に囲まれた近代の都市での人間が圧迫される自然の叫びです。一方、デ・クーニングの憎悪の大集合のは、現代都市のシステムによって生身を管理され、すでに無個性化の道を歩まされる人間の、後もどりのできない怒りの叫びと言えます。
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アメリカの現代都市は、扇情的であでやかな「女」のイメージに満ちています。
しかし、雑誌やマス・メディアにあふれるそれらのあでやかなピンナップは記号という虚像に過ぎません。人々から生身をそぎ落とし自身の効率化をすすめる都市のシステムは、一方では、あでやかな生身の典型をフィクション、つまり記号として大量に人々に差します。
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「私はいつも俗悪のメロドラマに包まれている」と彼が言うように、デ・クーニングは、ピンナップの「女」からそぎ落とされ、その裏側に押し込められたはずの、生身の「女」を憎悪のアクション行為で探り当てようとします。彼は、そこからなおも歩を進め、都市のシステムが私たちから収奪した生身の残がいを白日のもとにさらすことで現代都市を批判し、自己回復をはかろうと制作を続けます。
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20世紀アメリカ現代美術作家論
「アメリカ現代美術は何を残したか」 河瀬 昇 より
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by saika123 | 2012-11-26 14:22 | 美術

ロックとファッションとアートな日々

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金子圀義

グラフィックの世界観で金子の仕事がきになったのはずいぶんと早い時期だった。金子の描く女性がすきになったのがきっかけだった。はじめに妙なヨーロッパ的であり、アンティークな雰囲気を感じたんだ。日本的な世界観ではなかった。妖しいエロティックな世界は子供の頃の僕を刺激した。

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by saika123 | 2012-11-25 14:43 | 美術

ロックとファッションとアートな日々

僕が20代の時に最も衝撃をうけたのは大竹伸朗の作品との出会いだったと思います。やっぱり最初に知ったのは日本グラフィック展での作品でした。80年代あたりは現在美術が盛んな時代背景がありました。たぶんそれは日比野克彦がメジャーになるにつれて若者に美術が波動していったように思いますね、それだけ日比野さんはTVにも出演していたし、この80年代あたりはニューペインティングという現代美術の流行が世界的にもなっていた時代背景があったからですね。そんな中に大竹さんの作品もあったのですが、圧倒的なパワーがありました。僕はこの頃、ポップアートにのめりこんでいましたが、当然、ニューペインティングの動きにも注目をせざるおえない80年代だったと思います

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大竹伸朗


東京都目黒区出身。
小学生の頃は漫画家になりたかったため、アニメのキャラクターを描き溜めては近所にあったアニメスタジオへ見せに行っていた。スタッフの人が褒めてくれ、帰りにセル画を貰えるのが嬉しかったという。中学生時代にはサッカー、ロック (音楽)、絵に没頭する。兄の持っていたレコードや画集を見聞きし、もの凄く影響を受けたという。
1974年、東京芸術大学に落ち、武蔵野美術大学油絵学科に入学するも、一週間で休学。北海道別海町の牧場で働く。翌年から北海道各地を巡り絵を描いたり写真を撮ったりして過ごす。
1977年から1978年、イギリスに留学。同地で様々な情景を撮影、またスケッチなどをし、その作品をまとめて作品集を出版する。
1980年、武蔵野美術大学油絵学科卒業。ノイズバンド「JUKE/19」結成し、自主制作でアルバム発売。
1982年から個展を開始。以後絵本、写真、立体、コラージュやパフォーマンスといった多種多彩な表現をみせ、一躍時代の寵児となる[要出典]。またアメリカなどでも個展を開催している。ガラクタや巨大なゴミを媒介にしての作品を特徴とし、海外でも評価は高い。
1988年より愛媛県宇和島市に移住。以降、活動の拠点とする。
1995年、山塚アイとパフォーマンスユニット「パズル・パンクス」を結成する。
2006年、東京都現代美術館で大回顧展「大竹伸朗 全景 1955-2006」を開いた。また、以前働いていた北海道別海町の牧場で個展を開いた。香川県直島の家プロジェクトの「はいしゃ」に作品「舌上夢/ボッコン覗」を発表。
小説家のウィリアム・バロウズが「私は彼の信奉者である」と公言したこともある。また、坂本龍一や和田ラヂヲとも親交がある。
2009年、香川県直島で、銭湯「I♥湯(アイラブゆ)」をオープン。

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by saika123 | 2012-11-17 09:19 | 美術

ロックとファッションとアートな日々

パルコが主催していた日本グラフィック展に最初に興味をもったのは日比野克彦の作品をはじめて観たときでした、日比野さんは82年の受賞だったので僕が美術学校に通っていた頃の受賞ですね。段ボールを使ってつくった作品は当時話題になりました。僕は日比野さんの色感覚がすきでした。もうひとつは日比野さんの書く字体です。とにかく字体が絵になっていたし素敵でした

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日比野克彦

岐阜県岐阜市出身。小学生時代は病弱で長期入院を強いられた。
学校群制度のために当時岐阜県下トップ進学校であった岐阜県立加納高等学校卒業(日比野は、岐阜県で学校群制度が始まった最初の年の生徒)。同校は美術科および音楽科も併設されているが、日比野は普通科生徒として在籍した。後に『朝日新聞』のインタビュー記事において、当時の加納高校生の高い進学意識に驚いた旨を書いている。
東京芸術大学への受験に失敗し多摩美術大学へ入学するが、東京芸術大学美術学部デザイン学科に再入学し1982年に卒業。1984年東京芸術大学大学院修了。芸大在学中にダンボールや、わら半紙を再利用した芸術作品を製作し脚光を浴びる。その後、舞台美術やパブリックアートなど、活動範囲を広げる。
1995年から1999年まで東京芸術大学美術学部デザイン学科助教授、1999年から2007年まで東京芸術大学美術学部先端芸術表現科助教授/准教授を経て2007年10月より現職。
自らの作家活動のほか、各種メディアに頻繁に登場している。特にサッカーファンとして知られ、1993年・1994年にはNHK・BS1で「Jリーグダイジェスト」の司会を務めたほか、1998年以降FIFAワールドカップ特番にも出演している。2010年日本サッカー協会理事に就任。
妻はコスチューム・アーティストのひびのこづえ

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by saika123 | 2012-11-17 08:27 | 美術

ロックとファッションとアートな日々

20代の前半(80年代)僕が特に影響を受けたイラストレーターが吉田カツさんでした。力強い線とタッチ、描き方、僕がなど求めているROCKな感性が吉田カツの絵にはありました。イラストレーションが最も面白かった時代が1980年代の初頭でしたね。何故ならイラストレーションの需要がたくさんあったしイラストレーターたちは仕事がたくさんあった時代だったとも思うんですね。パソコンがまだない時代だったので、イラストレーターの個性ははっきりと出ていた時代だったとも思います。

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閉ざされた街     カルメンマキ&OZ  デザイン 吉田カツ


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 吉田カツは、デザイナー、アートディレクターを経たのち、1970年代よりフリーのイラストレーターとして、数多くの雑誌や書籍の表紙画、挿絵を手がけてきました。
 雑誌「スナイパー」や全日空機内誌「翼の王国」の表紙など、吉田のイラストレーションは、観る者に常に強烈なインパクトで迫ってきます。
 吉田がイラストの仕事と並行して、描いてきた絵画。描かれるものは、男女のエロティックな姿態や、田園や山の風景、果物や本などの静物。モチーフは異なりながらも、大胆な線と抽象的な造形には、生命そのもののほとばしるエネルギーが溢れています。そこには、吉田の事物を見据える鋭い眼と多角的な視線が潜んでいます。
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by saika123 | 2012-11-15 20:11 | 美術

ロックとファッションとアートな日々

イラストレーターという職業を意識した高校生時代の僕がいました。もともとはグラフィックデザインを職業にしたいと中学時代から夢みていたんですが、70年代中頃〜80年代にかけて世の中的にイラストレーションが主流にもなっていたという事もありました。高校生の頃ですね、山口はるみのイラストレーションを観たのは、もの凄い写実なのに絵になっている。その不思議な線や色の感覚に憧れました。僕も高校生の頃はミュージックライフや映画雑誌のロードショーやスクリーンを観てロックスターや女優などの模写をしていたので顔を描くのが上手な人には嫉妬と尊敬をもっていました。特に山口はるみのイラストは素敵でしたね

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山口はるみ

東京藝術大学油画科卒業。
西武百貨店宣伝部デザインルーム、ヴィジュアルコミュニケーション・センターを経てフリーに。
1969年よりパルコの広告制作に参加。
1989年東京イラストレーターズ・ソサエティに参加。
主な作品に雑誌「太陽」イラスト、
「話の特集」イラスト、
マンズワイン「ピンナップガール」ポスター、
アオハタCF、パルコ「プール」ポスター、
セゾン劇場ポスター、
マイカル・サティ広告、
つかこうへい劇団ポスター、
JRA広報誌「MORS」表紙など。
資生堂ギャラリー、
ギンザ・グラフィック・ギャラリー、
渋谷パルコギャラリー、
南青山画廊、
クリエーションギャラリーG8などで展覧会を開催。
主な著作、作品集に「HARUMI GALS」「映画の夢・夢の女」「WOMEN」など。
 
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by saika123 | 2012-11-15 19:35 | 美術

ロックとファッションとアートな日々

1970年代後半〜80年代はイラストレーターのブームでしたね。その中にペーター佐藤さんもいました。ペーターさんは僕の卒業したセツモードセミナーの先輩にもあたるんですが、70年代中期〜80年代にかけてかなり売れっ子のイラストレーターで、どこででも目にしましたね。西武百貨店、PARCOが一番元気だった時代でもあり雑誌でいえばananなどのマガジンハウスが主流だった時代でした、常に新しいものを世にだしていたし、この時代の若者はマルイやパルコには誰しもがお世話になっていました。ペーターのイラストレーションはこの時代の象徴だったと思うし、実際に色の使い方にしろ人物のデッサンは独創性があり一般的には誰もがすきだった絵だったように思いますね

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故ペーター佐藤

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男性は別にして女性はこうおいう色の使い方が大好きなんですよね

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ユーミンのコバルトアワーのアルバムもペーターさんのデザインでした

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1970年代(1972年の帰国以降)前半にエアブラシのテクニックで一世を風靡し、国内はもちろんニューヨークなどの海外でも高い評価を得る。後半には近未来の女性をモチーフとして、エアブラシによる美人画の画法を確立したといわれる。ニューヨーク滞在中にはイラストレーション以外にヘアメイクやファッションの分野でも活躍していた。1980年代に入るとタッチの粗いパステルを使った人物画に力を注いだが、中でもジェームス・ディーンや美空ひばりなど内外のスターや、アメリカの子供達をモチーフにした一連の作品群が人気を博した。
略歴

1945年 神奈川県横須賀市に生まれる。本名:佐藤憲吉。
1960年頃 日比谷高校在学中、本格的なグラフィックデザインを学ぶ。
1965年 スタジオグラフィス入社、同年セツ・モードセミナー入学。
→長沢節いわく「在学中の彼は全身画は下手だけど、首から上は右に出るものがいなかった」
1967年 東京アドデザイナーズ・イラストレーション部に入社。
1968年 セツモードセミナー卒業。同年東京アドデザイナーズを退社。
1968 - 1972年頃 NYに滞在し、演劇のアートディレクター、画家ポール・ジェンキンスのアシスタントなどを務める。
→フリーのイラストレーターとして活動開始したのは1969年の帰国後から。
1980年頃 パステルを使ったポートレートを中心に作品を制作。
1982年 3度目の渡米。1983年11月の帰国まで約1年半NYに滞在し、作品の制作に打ち込む。
1986年 原宿に「Pater's Shop and Gallery」をオープン。
1991年 プレイボーイ・スペシャルエディション社よりリトグラフを発表。同年、同社の主催でサンフランシスコ、ニューヨークで個展開催。
1994年 急逝(享年49)。当初親族は死因不明と公表したが、後日肺炎と訂正された。

1965年にセツモードセミナーに入学なんて、僕はまだ5歳でしたね。ペーターさん、セツ先生に首から上を描くのが上手いと褒められているんですね!なるほどわかります。上手ですよね!セツ先生はそんなに人の絵を褒めない人なんですけどね。そんな僕も81年に入学した頃、おまえ、顔描くのが上手いなって言われたことありましたよ!ホントに!!
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by saika123 | 2012-11-15 16:59 | 美術