LIFE STYLE CREATION FOR MEN'S

<   2012年 10月 ( 34 )   > この月の画像一覧

ロックとファッションとアートな日々

f0210407_2143028.jpg


1800年代〜1950年代までの奇妙なエロティシズムがある。この奇異な世界を怖いながらも興味を持った小学生時代のボクがいた。それは西洋のまだ知らない得体の知れない恐怖感とアンダーグランドな世界観に惹かれて行ったのだった


f0210407_21544088.jpg
f0210407_21543240.jpg
f0210407_21542651.jpg
f0210407_21541547.jpg
f0210407_2154396.jpg
f0210407_21535283.jpg
f0210407_2153415.jpg
f0210407_2153311.jpg
f0210407_21531825.jpg
f0210407_21531117.jpg
f0210407_2153349.jpg
f0210407_21525484.jpg
f0210407_21524714.jpg
f0210407_2152344.jpg
f0210407_21522285.jpg
f0210407_21521013.jpg
f0210407_21515811.jpg
f0210407_21514139.jpg
f0210407_21512773.jpg
f0210407_21511689.jpg
f0210407_2151646.jpg
f0210407_21505772.jpg
f0210407_21504444.jpg
f0210407_21503249.jpg
f0210407_21502225.jpg
f0210407_21501231.jpg
f0210407_2149559.jpg
f0210407_21494777.jpg
f0210407_21494149.jpg
f0210407_21493330.jpg
f0210407_21492312.jpg
f0210407_21491629.jpg
f0210407_21491037.jpg
f0210407_2149172.jpg
f0210407_21484940.jpg
f0210407_21484173.jpg
f0210407_21483443.jpg
f0210407_21481033.jpg
f0210407_21475620.jpg
f0210407_21471428.jpg
f0210407_2147899.jpg
f0210407_2147158.jpg
f0210407_214652100.jpg
f0210407_21464397.jpg
f0210407_21462825.jpg
f0210407_21462164.jpg
f0210407_21461368.jpg

[PR]
by saika123 | 2012-10-31 21:56 | 美術

ロックとファッションとアートな日々

f0210407_21211212.jpg


フランスの写真家であり画家であり人形作家として最後のシュールレアリストとしてブルトンに賞賛されたピエールモリニエ!アメリカンエロティックとは別にいかにもフランス的な雰囲気がある。エロとビューティの違いは一般の人の目にはわからない事が多い。例えばポルノティックとエロティックの違いのようになにが芸術的なものかは知らされないことが多い。

f0210407_21273258.jpg
f0210407_2127184.jpg
f0210407_2127999.jpg
f0210407_21264943.jpg
f0210407_21263941.jpg
f0210407_21263360.jpg
f0210407_21262632.jpg
f0210407_2126204.jpg
f0210407_21261283.jpg
f0210407_212668.jpg
f0210407_2126068.jpg
f0210407_21255144.jpg
f0210407_21254488.jpg
f0210407_21253839.jpg
f0210407_21253381.jpg

[PR]
by saika123 | 2012-10-31 21:28 | 60年代ファッション

ロックとファッションとアートな日々

f0210407_21161655.jpg


ピエールモリニエ


(Pierre Molinier、1900年-1976年)画家、写真家、人形作家。

ナルシスト。フェティシスト。女装狂。近親相姦と死姦愛好者。両性具有者。天使。拳銃自殺者。偉大なスキャンダリスト。「狂気の愛」を描き続け、アンドレ・ブルトンにその魔術的才能を激賞された。画布に精液を塗る、女装する、人形と自身の写真をコラージュする、といった倒錯的な作風で知られる、最後のシュルレアリスト。

略歴
1900年:4月13日金曜日、フランス・アジャンに生まれる。父親はペンキ職人、母親は裁縫師。
1928年:ボルドーで穏健な野獣派の画家としてデビューするが、性交中の男女を描いてスキャンダルを起こす。
1944年:父親が薬物中毒の果てに自殺。
1956年:アンドレ・ブルトンのキュレートによってパリで個展を開催するが、売春宿を営んでいることを告白したり二股のティルダを展示しようとしたりする露骨さが嫌われて疎遠となる。
1960年:妻に対する暴力と従兄弟に向けて銃を撃ったことから1ヶ月の禁固刑。
1975年:アギュロと両性具有をテーマとしたフォトセッションを敢行。
1976年:友人にあらかじめ宣言した上で、自室にて拳銃自殺。死体の周りには無数のポルノグラフィがばらまかれていた。
彼独自の奇怪な作品を次々と生み出し、背徳的なセックスに耽溺。自己フェラチオ用の器具を開発して写真に撮り、名刺がわりに配るなど、数知れぬ奇行を働いたことでも知られる。その他、黒のストッキングとハイヒールで女装した自身の肛門を踵に括り付けた自家製ディルドーで犯しながらそのアクロバティックな姿を写真に収めたり、早逝した妹の亡骸の上に絶望の涙とともにこらえきれず漏らした精液を滴らせたこともあるとされる。

f0210407_21195877.jpg
f0210407_2119273.jpg
f0210407_21191138.jpg
f0210407_2119088.jpg
f0210407_21184943.jpg
f0210407_21184079.jpg
f0210407_21183010.jpg
f0210407_21182458.jpg
f0210407_21181969.jpg
f0210407_21181152.jpg
f0210407_2118689.jpg
f0210407_2118119.jpg
f0210407_21175520.jpg
f0210407_2117498.jpg
f0210407_2117332.jpg
f0210407_21172753.jpg
f0210407_21172211.jpg

[PR]
by saika123 | 2012-10-31 21:20 | 美術

ロックとファッションとアートな日々

f0210407_18382992.jpg
ストーンズは2012年夏に結成50周年を祝って、ハードカバーの写真集をリリースした。バンドの象徴的なイメージである唇のロゴも新しいバージョンが使用された。
メンバーは2012年か2013年にワールドツアーを行う用意があると広く報じられた。7月にはキースがリハーサルを行ったことを認め、ミックも2012年の秋には再びステージでパフォーマンスを行うだろうと語った。
f0210407_18385086.png
f0210407_18384530.jpg

7月13日から8月27日までロンドンのサマセット・ハウスで無料の写真展も開催された。
9月にはブレット・モーガンが監督するHBOのドキュメンタリーが公開されることとなった。このプロジェクトは2012年3月にローリング・ストーン誌で告知された。このドキュメンタリーでは「バンドがクラブで演奏していた時代から世界最大のバンドに達するまで」を記録すると言われている。約50時間におよぶインタビューが行われ、その中には元メンバーのビル・ワイマンやミック・テイラーへのものも含まれた。監督のモーガンは「彼らが今までに行った中で最も大規模なグループインタビュー」であると語った]。これは1988年に結成25周年を記念して作られた『25x5』以来のドキュメンタリーとなる。
f0210407_18391274.jpg

2012年8月30日、新たなドキュメンタリーのタイトルが『クロスファイア・ハリケーン』になることが明らかにされた。これは1968年のヒットシングル「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」の歌詞の一節から採られたものである。イギリスでは10月に劇場公開、年末にはBBC Twoで放送されるが、アメリカではHBOのプレミアだけが行われる。同作は2012年11月に全世界で劇場公開される[109]。
2012年8月30日、バンドが11月にロンドンのO2アリーナおよびブルックリンズ・バークレイズ・センターでライヴを行うという噂が立ちこめるようになった。
2012年9月4日、ストーンズは新しいコンピレーション・アルバム『GRRR!』を11月12日にリリースすると発表した。このアルバムは4つの異なったフォーマットでリリースされ、新曲が2曲収められる。「Gloom and Doom」「One Last Shot」の2曲はパリのウィリアム・テル・スタジオで8月の数週間で録音された。
2012年9月7日、バンドは『クロスファイア・ハリケーン』のロンドン、レスター・スクウェアにおける10月18日のプレミアに出席することが発表された。
f0210407_18401772.jpg

f0210407_18521981.jpg
f0210407_1852893.jpg
f0210407_1851572.jpg
f0210407_18514671.jpg
f0210407_18513932.jpg
f0210407_18513187.jpg
f0210407_18512310.jpg
f0210407_18511571.jpg
f0210407_1851763.jpg
f0210407_1851034.jpg
f0210407_18505138.jpg
f0210407_1850411.jpg
f0210407_185023100.jpg
f0210407_1850155.jpg

[PR]
by saika123 | 2012-10-31 18:40 | 70年代ロックファッション

ロックとファッションとアートな日々

f0210407_186761.jpg


1975年にストーンズはテイラーの後任ギタリストを探すためにミュンヘンでのレコーディングセッションを行い、数名のギタリストを招待しオーディションを行った。このセッションは後に「グレイト・ギタリスト・ハント」と呼ばれた。セッションに招待されたギタリストは、後にメンバーとなるロン・ウッドの他、ハンブル・パイのリードギタリストであったピーター・フランプトン、ヤードバーズのジェフ・ベック、ロリー・ギャラガー、ウエイン・パーキンス、ハービィ・マンデルなどがいた。(ベックとギャラガーは後にセッションがオーディションとして行われていたことを知らなかったと語っている。また、彼らは決して加入に同意しなかったろうとも語っている。)シュギー・オーティスもこのセッションに参加したが加入には至らなかった。パーキンスとマンデルのプレイは『ブラック・アンド・ブルー』(イギリス2位;アメリカ1位)に収められた。しかしながらキースとミックはストーンズを純粋なブリティッシュバンドのままにしておきたかった。ロニーがオーディションを受けると、皆が彼を正しい選択であると同意した。
f0210407_1865959.gif

ロニーはすでにキースとレコーディングを行ったりライブを行ったりしており、「イッツ・オンリー・ロックンロール」の作曲およびレコーディングに貢献していた。彼はミックのオファーをフェイセズとの絆を理由に断っており、「それは本当に俺にとって重要だった。」と語っている[47]。ロニーはストーンズの75年北米ツアーに参加すると公約した。彼は結局ストーンズに正式加入したが、それはロッド・スチュワートがフェイセズを正式脱退し解散したことを受けてであって、諸説はありながらもこの時点を「ロンのローリング・ストーンズの加入」とする説が一般的である。他のストーンズのメンバーとは異なり、およそ20年後にビルが脱退するまでバンドからサラリーを受ける立場であった。ビルの脱退後、ロンは(バンドの収益面でも)ストーンズの正式メンバーとなった。
f0210407_1872590.jpg



ツアー・オブ・アメリカ '75、1975年7月23日
1975年北米ツアーはニューヨークのブロードウェイにおいて行われたトレーラーのステージ上でのライブで始まった。サポート・メンバーとしてロン(ギター)、ビリー・プレストン(キーボード)、オリー・ブラウン(パーカッション)などが参加した。公演によっては、イアン・スチュワート(ピアノ)が参加している。ステージには巨大なファルスとロープが現れ、ミックは聴衆の上でそれを揺り動かした。ミックはトロントのエル・モカンボ・クラブでのライブレコーディングを設定し、その様子はバンド久々のライブ盤となった『ラヴ・ユー・ライヴ』(イギリス3位;アメリカ5位)に収められた。
1976年3月にはロンのストーンズへの正式加入が発表され、同時にツアーを行うことが告知された。4月、前年のメンバーのままヨーロッパ・ツアーを行うと同時に、ロン正式加入後初のアルバム『ブラック・アンド・ブルー』がリリースされた。
f0210407_1875531.jpg

ツアーではキースのヘロインによる依存症状がかなり悪化し、公演中に居眠りや、ホテルでは禁断症状が出て心臓が停止しかけるなど、ドラッグによるアクシデントが後を絶たなかった。それを見ていたロンは、警察をごまかしてわざわざヘロインを調達して来たというエピソードがある。ストーンズはツアーの締めとしてイギリスでネブワース・ロック・フェスティバルに出演し、25万人を超える聴衆の前で演奏した。
f0210407_188388.jpg
f0210407_1881955.jpg

1977年2月、キースはトロントへの到着が遅れた。他のメンバーはすでにトロント入りし彼を待っており、キースに対してどこにいるのかと尋ねる電報を送っている。2月24日、アニタ・パレンバーグと共にトロントに到着したキースは税関によって足止めされた。荷物の中からカナビス10グラムとヘロインの形跡が発見されたためであった。アニタは逮捕されたが出廷を約束し釈放された。その3日後、アニタの逮捕状を持った王立カナダ騎馬警察がキースの部屋を訪れ、22グラムのヘロインを発見した。キースは麻薬密輸の罪で告発される。後に検察官は、キースがカナダ到着後にヘロインを入手したと認めた[。バンドはエル・モカンボ・クラブという小さなクラブでの2回のライヴのためにカナダを訪問し、その際に起こった事件だった。ライヴの様子はアルバム『ラヴ・ユー・ライヴ』に収録された。同時にこのカナダ訪問では、当時の首相ピエール・トルドーの夫人、マーガレット・トルドーとのスキャンダルがあり、マーガレットがショーの後にバンドとのプライベート・パーティに出席したことが判明するとより多くの論争が巻き起こった。バンドが行った2回のライヴは公には告知されず、エル・モカンボはその週全部をカナダのバンド、エイプリル・ワインのレコーディングで予約されているとしていた。ローカルラジオ局の1050 CHUMがエイプリル・ワインの無料ライヴチケットをラジオ番組のコンテストの当選者に配布していた。当選者達は金曜日と土曜日に行われたライヴで、ローリング・ストーンズがステージに現れたのを見て驚いていた]。
3月4日、アニタは空港での一件に関して罰金を命じられた。キースに対する裁判は1年以上長引くこととなった。結局は執行猶予を受け、オシャワで2回のチャリティ・コンサートを行うよう命じられた[。2つのコンサートは共にローリング・ストーンズとニュー・バーバリアンズ(ロニーが最新のソロルバムをプロモートするために結成したバンドにキースが加わったグループ)の共演で行われた。この一件でキースはヘロインの使用を止めようと固く決心することとなった[7]。また、3番目の子ども(タラ)の死以来張り詰めていたアニタとの関係の終焉にも大きく影響した。さらにアニタはキースがヘロインを止めようと努力していた際も、ヘロインに耽溺するのを止めることはできなかった。キースが法的および個人的な問題を解決しようとしていた間、ミックは飛び回る生活を続けていた。彼はニューヨークのディスコクラブ、スタジオ54の常連で、しばしばモデルのジェリー・ホールと訪れていた。ビアンカとの結婚生活は長年の別居の後1977年に終了した。
ストーンズは70年代前半からの人気を維持していたが、評論家達はバンドの勢いが衰えたと言い、レコードの売り上げも期待外れになった。70年代後半にパンク・ムーブメントが生じると、その支持者はストーンズを退廃的で年老いた金持ちの音楽であり[7]、停滞して無意味であると批判した[54]。これは1978年になると一変した。アルバム『女たち』(イギリス2位; アメリカ1位)がリリースされ、「ミス・ユー」「ファーラウェイ・アイズ」「ビースト・オブ・バーデン」「シャッタード」がシングルカットされた。これらはパンク・ムーブメントでの批判に対する返答とされ、大半がテンポの速い単純なギタードライヴのロックンロールであった[54]。アルバムの成功は若年層の人気回復に貢献した。アルバム発表と同時に全米ツアーが始まり、バンドはプロモーションとして「サタデー・ナイト・ライブ」に出演した。バンドは翌年のヨーロッパツアーは行わず、1967年以来3年ごとに行っていたツアーのルーチンは破られた。
f0210407_1810635.jpg

1979年4月、裁判所の命令に従ってチャリティ・コンサートをオシャワ・ホールで開く。ニュー・バーバリアンズはよくキースがリーダーだと誤報されているが、あくまでロンがリーダーである。メディアがこぞってキースに注目したためと思われる。バーバリアンズは5月いっぱいまで全米ツアーを行っている。メンバーはロン(ヴォーカル&ギター)、キース(ギター&ヴォーカル)、イアン・マクレガン(キーボード&ピアノ)、スタンリー・クラーク(ベース)、ジョセフ・モデリステ(ドラムス)、ボビー・キーズ(サックス)。 このツアーの模様は、ロンが設立したレコード会社よりライヴ・アルバム(L.A.公演のもの)として2006年になってようやく日の目を見た。 また、ロンはこのバンドで日本に行くことも考えたという。
f0210407_18102067.jpg

『女たち』の成功に続いてストーンズは1980年中頃に『エモーショナル・レスキュー』(イギリス1位; アメリカ1位)を発表した。このアルバムの録音は、ミックとキースの関係が悪化したため混乱に陥ったとされる。
f0210407_1829762.jpg
f0210407_18284147.jpg
キースは未だにヘロインを使用していたとイアン・マクレガンは語った。キースはまたアルバムのプロモーションとして80年の夏か秋にツアーを行いたがったが、ミックはこれを拒否した。『エモーショナル・レスキュー』はアメリカとヨーロッパで共に1位となり、シングル「エモーショナル・レスキュー」はアメリカで3位となった。
f0210407_18111036.jpg
f0210407_18105780.jpg

1981年初めにバンドは再結集し、その年に全米ツアーを行うことを決定した。その年前半の僅かな時間でアルバムを作成し、ツアーのリハーサルを行った。ニューアルバム『刺青の男』(イギリス2位; アメリカ1位)は8月31日にリリースされ、このアルバムより先行シングルで、ミックに「80年代の代表曲」といわしめた「スタート・ミー・アップ」がリリースされ、アメリカで2位、ビルボードのその年のチャートでは22位を記録した。2つの曲、「友を待つ」(アメリカ13位)「トップス」ではミック・テイラーがギターをプレイした。一方「奴隷」と「友を待つ」ではソニー・ロリンズがサックスをプレイした。また、「ハング・ファイヤー」もビルボードのチャートで20位を記録した。3年ぶりとなる全米ツアーは公演の規模が70年代のツアーとは破格の規模であり、9月25日から12月19日まで行われた。ツアーそのものは非常にエネルギッシュで、それまでと比べると(麻薬の影響もあっただろうが)かなり新鮮味のあるツアーとなっていた。同ツアーはその年の最高を売り上げたツアーとなり、いくつかのショーは録音された。その模様は翌年にライヴ・アルバム『スティル・ライフ』(イギリス4位; アメリカ5位)として発表された。また、1983年にはハル・アシュビーによって映画『レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー』として公開された。この映画にはアリゾナ州テンピのサン・デヴィル・スタジアム、ニュージャージー州メドウランズのブレンダン・バーン・アリーナでの公演が収録された。
f0210407_18115721.jpg
f0210407_18114568.jpg
f0210407_18113525.jpg

1982年中頃、バンド結成20周年を記念するためにストーンズはヨーロッパツアーを開始した。ヨーロッパツアーは6年ぶりで、前年のアメリカンツアーを踏襲した物であった。このツアーで元オールマン・ブラザーズ・バンドのチャック・リーヴェルがサポートメンバーとして加わる。このヨーロッパ・ツアーを最後に、ストーンズは1989年までライヴ活動を休止することとなる。年末までにバンドは新しいレーベル、CBSと4枚のニューアルバムのリリースを2,800万ドルで契約した。
f0210407_18162683.jpg
f0210407_1816967.jpg
f0210407_18155591.jpg
f0210407_18152868.jpg
f0210407_18151329.jpg
f0210407_18145844.jpg
f0210407_18144396.jpg
f0210407_18143447.jpg
f0210407_18141838.jpg
f0210407_1814690.jpg
f0210407_18134039.jpg
f0210407_18133278.jpg
f0210407_18132269.jpg
f0210407_1813897.jpg
f0210407_1813015.jpg
f0210407_18124249.jpg
f0210407_18123180.jpg
f0210407_18122169.jpg
f0210407_18121229.jpg

[PR]
by saika123 | 2012-10-31 18:16 | 70年代ロックファッション

ロックとファッションとアートな日々

f0210407_17504433.jpg


ストーンズはBBCの「Pop Go The Sixties」に最も多く出演したバンドであった。1969年12月31日には「ギミー・シェルター」をライヴ演奏している。1970年、バンドはアラン・クレインおよびデッカ・レコードとの契約を終了した。クレインとの契約紛争の間に、バンドは自らのレーベル、「ローリング・ストーンズ・レコード」 (Promotone BV) を設立した。同レーベルからの第1弾作品として『スティッキー・フィンガーズ』(イギリス1位;アメリカ1位)を1971年3月にリリースした。アルバムジャケットはアンディ・ウォーホルがデザインした。同作には「ブラウン・シュガー」「ワイルド・ホース」が収められたが、これらは1969年のアメリカン・ツアー中にアラバマ州のマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオで録音されたものであった。アルバムはブルースの影響を強く受けた前2作の路線を引き継いでいた。その特徴として「ルーズで、今にも崩れそうな雰囲気[35]」を持ったアルバムであり、また、ミック・テイラーが完全参加した初のアルバムでもあった。
f0210407_17511812.jpg

『スティッキー・フィンガーズ』のリリース後、バンドは金融面での勧告を受ける。高率課税に辟易したミックとキース、ビルの3人はフランス南部へ移住。バンドは移住直前にイギリスで「フェアウェル」ツアーを行った。キースはヴィルフランシュ=シュル=メールに家を借り、メンバーや友人達と生活した。バンドはモービル・ユニットを使い、地下室でレコーディングを行った。そのマテリアルは最終的にロサンゼルスのサンセット・スタジオで編集が行われ、2枚組アルバム(CDでは1枚)『メイン・ストリートのならず者』(イギリス1位;アメリカ1位)として1972年5月にリリースした。評論家ロバート・クリストゴーはこのアルバムをA+と評価し、レスター・バングズはこのアルバムに低評価を与えたが、数ヶ月の内にその評価を一転させ、『ならず者』はストーンズの最高傑作の一つであると認めている[37]。アルバム発表後、3年ぶりの全米ツアーを行った。その頃に撮影された映画『コックサッカー・ブルース』(未公開)と『レディース・アンド・ジェントルメン』(1974年)はツアーのドキュメンタリーであり、テリー・サザーンも出演している。
f0210407_17514166.jpg

1972年11月、バンドはジャマイカのキングストンでセッションを始める。『山羊の頭のスープ』(イギリス1位;アメリカ1位)は1973年にリリースされた。シングル「悲しみのアンジー」は世界的なヒットとなり商業的には成功したが、生ぬるく容認された最初のアルバムであった[38]。本作のセッションでは数多くのアウトテイクが生じ、例えば「友を待つ」の初期バージョンも録音されていた。同曲は8年後に『刺青の男』で発表された。
f0210407_1756162.jpg
f0210407_17554573.jpg
f0210407_1755267.jpg
f0210407_17551881.jpg
f0210407_17551279.jpg
f0210407_17545886.gif
f0210407_17544372.jpg
f0210407_17543240.jpg
f0210407_17541845.jpg
f0210407_17541361.jpg
f0210407_1754521.jpg
f0210407_17535541.jpg
f0210407_17533459.jpg
f0210407_17532288.gif
f0210407_1753736.jpg
f0210407_17525913.jpg
f0210407_17525030.gif
f0210407_17523183.jpg
f0210407_1752212.jpg
f0210407_17521279.jpg
f0210407_17515441.jpg



ビル・ワイマン、1975年は、
レコーディングはドラッグに関する別の法廷闘争で中断された。それはフランス滞在当時までさかのぼり、キースの逮捕令状も発行され、他のメンバーは証言のためフランスに戻らなければならなかった[。これと平行してミックのドラッグに関する裁判(1967年および70年)が行われ、73年初めに予定されていたパシフィック・ツアーの計画を複雑な物とした。日本公演は前年に発表されていたが、メンバーの麻薬所持による逮捕歴や、ビートルズ来日の時のような混乱を避けるためという理由により、入国許可が下りず、チケットが完売していたにも関わらず、公演が直前になって中止に。その後、1990年の初来日までストーンズのライヴは夢のまた夢といわれていた。キースは6月にイギリスで逮捕された[41]。その後3年ぶりのヨーロッパ・ツアーはフランスを迂回して、9月から10月にかけて行われた。
バンドはミュンヘンのミュージックランド・スタジオで次回作のレコーディングを行う。アルバム『イッツ・オンリー・ロックンロール』(イギリス2位;アメリカ1位)は1974年にリリースされたが、ジミー・ミラーは麻薬の問題もありプロデューサーを降りていた。代わってミックとキースが「グリマー・ツインズ」としてプロデュースを行った。アルバムのタイトルナンバー「イッツ・オンリー・ロックンロール」は名義こそジャガー/リチャーズになっているものの、実際にはロン・ウッドが作曲し、ミックが詞をつけるという意外な形で完成された。これは、同曲が元々ロン・ウッドがソロアルバムのレコーディングのために曲を作っていたため。“たかがロックンロール、でも俺はそれが好きなんだ”というストーンズの意気地ともいえる歌詞は、ロン・ウッドの自宅にきて酒を飲み交わしていた際にミックとフェイセズのメンバーであるケニー・ジョーンズとの口論から生まれたという。これが原因なのか定かではないが、同曲のヴォーカルはミックとケニーの二人がとっている。これは結果的に、後のメンバー昇格する要因の一つだったと思われる(ジャガー/リチャーズ/ウッドという共同名義で作曲をしているものがある)。
f0210407_1758876.gif

1974年の終わり頃になると、テイラーはメンバーとして我慢がならなくなっていた。バンドの状況は複雑な物になっており、互いに異なった国に住み法的な問題が正常なツアーを制限するようになっていた。加えて、キースは薬物使用が進み、そしてテイラーは自身の創造的な貢献が認められていないと感じていた。年末、ミュンヘンでのセッションの間にテイラーはストーンズを脱退した。1980年に彼は「僕は少しうんざりするようになっていた。僕は自分のギタリストとしての範囲を広げて、他に何かしたかった。...僕は当時、本当は歌を書いたり作ったりしていなかった。僕はちょうど書き始めていたんだ。そして、それは僕の決定に影響した。...頂きから頂きへとずっと渡っていける何人かの人がいる。彼らは他の誰かの成功に沿って乗ることができる。そして、それが十分でない何人かの人々もいる。僕は本当にそれが十分でなかった。」と語っている。
f0210407_17584495.jpg
f0210407_180756.gif
f0210407_17595276.jpg
f0210407_17594056.jpg

[PR]
by saika123 | 2012-10-31 17:56 | 70年代ロックファッション

ロックとファッションとアートな日々

f0210407_1737246.jpg


1964年:全米デビュー。そのすぐ後に初の全米ツアーを行うも、そのほとんどがガラガラという状況だった。それでも、ストーンズは積極的にメディアへの露出・ライヴ活動を行い、徐々にその人気に火がつき始める。しかしアメリカでの成功が本格化していない頃、本国イギリス、ならびにヨーロッパにおいては、すでに人気を獲得しており、イギリスではデビュー・アルバム『ザ・ローリング・ストーンズ』が12週連続No.1に輝いている。
f0210407_17374770.jpg

1965年:ジャガー/リチャーズ作品として(当時、キース・リチャーズはファミリー・ネームをリチャードと名乗っていて、1970年代後半にリチャーズに戻した)、シングル「サティスファクション」が自身初となる全米で4週連続No.1となる。以後、このソングライターチームによって何曲もの大ヒットナンバーを生んでいる。
f0210407_1738244.jpg

1967年:キースの自宅が警察により捜査され、麻薬容疑の証拠品を押収。後に、ミックとキースが有罪となる。同年、ブライアンも麻薬不法所持で逮捕される。以降10年以上に渡り、ミックと特にキースは同容疑で何度か逮捕される。
同年、レコードデビュー前に交わされたアンドリュー・オールダムとのレコードプロデュース契約を解除し、以降の自己プロデュース作品(その初作品は『サタニック・マジェスティーズ』)を発表。
f0210407_17381523.jpg

1968年:プロデューサーにジミー・ミラーを迎え、製作されたアルバム『ベガーズ・バンケット』を発表。このアルバムの冒頭に収められたナンバー「悪魔を憐れむ歌」は、「歌詞が神を冒涜している」という宗教団体からの抗議が起こり、このアルバムが大量に燃やされるという事件があった。このナンバーのレコーディング風景はジャン=リュック・ゴダール監督によって『ワン・プラス・ワン』というタイトルの音楽映画として記録されている。しかし、このアルバム自体はとても充実したセッションであったことが後年メンバーに語られており、オープン・チューニングによるギターリフが印象的な楽曲「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」が録音・発売され大ヒットを記録している。同曲はアルバムにこそ収められてはいないが、このアルバムセッションの際に生まれたナンバーである。
f0210407_1738287.jpg

1969年6月:67年頃から公私ともにトラブル続きで、精神的に疲労していたブライアンの正式脱退表明。後釜には、ジョン・メイオールズ・ブルースブレイカーズ出身のミック・テイラー(以降、「テイラー」)が決定。
同年7月3日:ブライアンが、自宅のプールで死体で発見される。ちなみにブライアン邸は『クマのプーさん』の作者として有名なA・A・ミルンが以前住んでいた家でもある。
同年7月5日:新生ストーンズとして以前から計画中だったハイドパークでのフリー・コンサートを「ブライアン追悼公演」として開催する。
f0210407_18562979.jpg

同年12月6日:秋から始まった久々の全米ツアー最終公演にカリフォルニア州オルタモント・スピードウェイで行われたラヴ&ピースというテーマのもと行われたフリーコンサートで、警備に雇った暴走族ヘルズ・エンジェルスが観客の黒人青年(メレディス・ハンター)を刺殺するという惨劇が起こる。「オルタモントの悲劇」である。
f0210407_17452151.jpg
f0210407_17445820.jpg
f0210407_1744524.jpg
f0210407_17444179.jpg
f0210407_17443644.jpg
f0210407_17442949.jpg
f0210407_1744198.jpg
f0210407_17433793.jpg
f0210407_17432279.jpg
f0210407_174371.jpg
f0210407_17423710.jpg
f0210407_1742315.jpg
f0210407_17421855.gif
f0210407_17394497.jpg
f0210407_17392985.jpg
f0210407_17392037.jpg
f0210407_1739974.jpg
f0210407_17384476.jpg

[PR]
by saika123 | 2012-10-31 17:45 | 60年代ファッション

ロックとファッションとアートな日々

f0210407_17204459.jpg
1962年7月12日、ローリングストーンズはマーキー・クラブでマディ・ウォーターズの曲名そのままに「ザ・ローリン・ストーンズ The Rollin' Stones」として最初のギグを行った。ラインナップはジャガー、リチャーズ、ジョーンズ、エルモ・ルイス(ギター)、ピアノにスチュワート、ベースにテイラー、ドラマーはミック・エイヴォリー(後にキンクスに加入)であった。ジョーンズとスチュワートはシカゴ・ブルースを演奏したがったが、ジャガーとリチャーズが好むチャック・ベリーやボ・ディドリーの演奏にも同意した[15]。ビル・ワイマンは1962年12月に加入し、チャーリー・ワッツは翌月の1963年1月に説得されて加入、バンドのリズム体が確定した。ビルがメンバーに引き込まれた理由が、「当時、大出力のベースアンプを所有していたから」という、ジョーク交じりの他メンバーのインタビューもあった。当時のストーンズのマネージャー、ジョルジオ・ゴメルスキー(英語版)はクロウダディ・クラブに日曜日の午後のステージを固定した。ゴメルスキーはクロウダディ・クラブが「ブルースの国際的なルネッサンス」の引き金となったと語った。マージー・ビーツ・ブームの到来と共に、ゴメルスキーはクロウダディでのショーをスウィンギン・ロンドンの到来の有力な側面と記した。
f0210407_17214411.jpg

ビートルズのパブリシストであったアンドリュー・ルーグ・オールダムがバンドのマネージャーに就任したが彼は19歳とバンドのメンバーより若く、エージェントのライセンスを取得するのが不可能であった。従って、オールダムの母が息子に代わってサインをし、オールダムとベテランのブッキング・エージェントであるエリック・イーストンの間の協力関係が築かれた]。ゴメルスキーはバンドとの契約書を交わしておらず、オールダムがマネージャーになることは相談されなかった[。オールダムはバンド名の綴りを "The Rollin' Stones" から "The Rolling Stones" へ変え、リチャーズの姓も「もっとポップに見えるから」と「リチャード」と変えさせた。スチュワートはオールダムの構想に合わず、ワイマンによれば「かわいくてやせっぽちの長髪の少年は1963年5月にメンバーから外されロードマネージャーとなり、1985年に死ぬまでバンドのピアニストを担当した。」とのことであった。
彼らは新しい演奏、作曲とレコーディングの完全なコントロール、マスターテープの所有権に対するロイヤリティとして当時の典型に対して三倍の額を得ることができた。
f0210407_17224763.gif
またデッカとの契約でオールダムはデッカのスタジオでは無くリージェント・サウンド・スタジオを使わせることにした。リージェントはモノラルの設備で、音響処置のため天井は卵ケースが貼り付けられ、都合の良いスタジオとなった]。オールダムはレコーディング経験はほとんど無かったがストーンズのプロデューサーとなり、リージェントについて「音が漏れ出て、楽器から楽器へ、正しい方法で」音楽が作り出される「雑音の壁」と言った。リージェントの使用料は低額で、バンドは当時一般的であった3時間分を予約する代わりに、長期間にわたってレコーディングや練習を続けることができた。イギリスでのファーストアルバムでは全ての曲がリージェントで録音された。
f0210407_17233357.jpg
f0210407_17231880.jpg
f0210407_17265590.jpg
f0210407_17263973.jpg
f0210407_17262490.jpg
f0210407_17261579.jpg
f0210407_17255836.jpg
f0210407_172541100.jpg
f0210407_17253582.jpg
f0210407_1725287.jpg
f0210407_17252175.jpg
f0210407_1725793.jpg
f0210407_17245053.jpg
f0210407_17244061.jpg
f0210407_1724284.jpg
f0210407_17241912.jpg
f0210407_172456.jpg

[PR]
by saika123 | 2012-10-31 17:27 | 60年代ファッション

ロックとファッションとアートな日々

f0210407_1712342.jpg


ストーンズの出現は、最初のアーバンブルースの世界的な人気の高まりの象徴の一つであった。バンド名はシカゴブルースの巨匠、マディ・ウォーターズの"Rollin' Stone"にちなんで、当時リーダーであったジョーンズが命名した[4]。ストーンズの活動継続と関連に関して評論家のロバート・パーマーは、彼らは「より短命なポップ・ファッションが現れたり消えたりしている」間、「リズム・アンド・ブルースとソウル・ミュージックの中で伝統的な真実に根ざしている」ことによると語っている。
f0210407_1713489.jpg
初期のレパートリーではリズム・アンド・ブルースとブルースのカヴァーが多くを占めていたが、その中にはいつもロックンロールが含まれていた。
f0210407_17175476.jpg
f0210407_17173667.jpg
f0210407_17172459.jpg
f0210407_17171283.jpg
f0210407_17165391.jpg
f0210407_17164625.jpg
f0210407_17163828.jpg
f0210407_17162222.gif
f0210407_17161311.jpg
f0210407_17155774.jpg
f0210407_17153428.jpg
f0210407_17151960.jpg
f0210407_1715937.jpg
f0210407_1715158.jpg
f0210407_17144780.jpg
f0210407_17143477.jpg
f0210407_17142421.jpg
f0210407_17141377.jpg
f0210407_17135721.jpg
f0210407_17135145.jpg
f0210407_17134140.jpg
f0210407_17131983.jpg

代表曲として「サティスファクション」「ひとりぼっちの世界」「黒くぬれ」「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」「ルビー・チューズデイ」「悪魔を憐れむ歌」「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」「ホンキー・トンク・ウィメン」「ブラウン・シュガー」「ダイスを転がせ」「悲しみのアンジー」「ミス・ユー」「スタート・ミー・アップ」など、多数のヒット曲がある。
[PR]
by saika123 | 2012-10-31 17:18 | 60年代ロック

ロックとファッションとアートな日々

f0210407_174166.jpg

ロック草創期の1960年代前半から現在まで半世紀近く、ストーンズは1度も解散することなく第一線で創作を続ける、ロックの代名詞的な存在である。エアロスミスやガンズ・アンド・ローゼズ、オアシスなど、ローリング・ストーンズを崇拝するアーティストは数知れない。
f0210407_1744531.jpg

ストーンズは当初ヨーロッパでの人気が高まり、間もなくブリティッシュ・インヴェイジョンの一波として北米での成功を納めた。イギリスでは22作のスタジオアルバム(アメリカでは24作)、11枚のライブアルバム(アメリカでは12作)、多くのコンピレーションをリリースし、現在までの全世界での売り上げは2億枚を超える。
f0210407_1752419.jpg
『スティッキー・フィンガーズ』(1971年)はその後アメリカで8連続No1となるアルバム群の最初の1枚であった。最新作の『ア・ビガー・バン』は2005年にリリースされた。バンドは1989年にロックの殿堂入りし、2004年には「ローリング・ストーン」誌の100組の偉大なアーティストで4位にランクされた。2008年には「ビルボード」誌の100組のトップアーティストで10位にランクされ、ビルボード ホット100では2番目に成功したアーティストに選出された。
f0210407_178232.jpg
f0210407_178571.jpg
f0210407_1775642.jpg
f0210407_1773930.jpg
f0210407_1773157.jpg
f0210407_1771621.gif
f0210407_176544.jpg
f0210407_1764752.jpg
f0210407_176379.jpg
f0210407_1762924.jpg
f0210407_1761477.jpg
f0210407_176244.jpg
f0210407_1755479.jpg
f0210407_1754567.jpg

[PR]
by saika123 | 2012-10-31 17:08 | 60年代ファッション