LIFE STYLE CREATION FOR MEN'S

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ロックとファッションとアートな日々

CD-Jを購入しました。これで3台めとなるCD-J!よく故障するんですよ。ようやく数年ぶりでGEMINIのプレイヤーを購入しました。以前はヴェスタックスを使用していましたが今回のGEMINIはスクラッチまでできると言うものですので愉しみです。テクニクスやパイオニアのプレイヤーが欲しいのは山々ですが、どうせすぐに壊れてしまうのでGEMINIで充分ですね。


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■特徴
スクラッチ機能/USBポート/MP3データ再生可能等
多彩な機能を備えたハイグレードDJミキシングコンソール

■スペック
入力:PHONO /LINE コンバーティブル(RCA PIN)×2、
MIC:フロント(1/4" PHONE、XLR)各1
出力:MASTER(RCA PIN)×1、(XLR,L,R)×1
REC(RCA PIN) 各1
EQ:3BAND ロータリーEQ(LOW、MID、HIGH)
スクラッチ/サーチ/ピッチベンド機能を備えた
ジョグダイヤル搭載/SEAMLESS LOOP/RELOOP機能/
ピッチコントロール±8、16、24%切替可能
シングルオート/キュー機能/リピート再生可能/
寸法:W 483×H 114×D268mm
重量:5.5Kg
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by saika123 | 2012-11-30 08:54 | SAIKA

ロックとファッションとアートな日々

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やばいくらいカッコイイ、ウイリアムクラインの写真!画像の中に見いだすクラインの構図や絵的な景、クラインの脳みそは、もはや写真ではなく芸術をカメラで描いていたんだ


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ウィリアム·クラインの伝記

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ニューヨーク
ウィリアム·クラインは、1928年にニューヨークで生まれました
貧しいユダヤ人移民の家族。 父親の
衣料事業は、1928年事故で折った
しかし彼の親戚 - 主に弁護士 -
裕福だった。
クラインも経験した30年代に育っ
学校の生徒の両方から、最初の手の反ユダヤ主義
そして路上で、彼はアイルランドの中でユダヤ人の少年だった
近所。 彼はいつも大衆文化から疎外されていると感じた。
彼の友人は明るい、皮肉として彼を覚えている
芸術と人文科学が好きだった子供。
彼は、近代美術館MOMAのことを敬愛して
その上に12歳から彼に第二の家のようだった。
そして14歳の時、3年先、彼の
クラスメート、彼はニューヨーク市立大学に在籍
社会学を勉強する。 18歳の時、彼は2年を費やし
ドイツとフランスに駐留する米軍内
無線オペレータとして、彼のコースを完了する前に。
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パリ
1948年に彼はパリで 'ソルボンヌ'に在籍。
1949年、クラインはロートで簡単に学び、
フェルナンレジェ。
レジェは反乱に彼の学生を奨励し、拒否する
適合とブルジョア価値観、それらをことを伝える
アトリエやギャラリーは廃止され、彼らこと
外に出て、路上で動作するはずです。
ジャンヌ·フロリンと結婚した後、彼はに残ることにしました
フランスのパリで、まだ在住。
50代前半クラインスタイル時にスペアであった、
抽象と建築。
この時期から絵は深く影響を受けていた
グラフィック、バウハウス、モンドリアンと導いマックス·ビル、バイ
絵画壁画をしようとするクライン。
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ミラノ
1952年にクラインは "ピッコロでミラノの2つのショーを持っていた
劇場 'との'ガレリアILミリオーネ "とし始めた
、建築家アンジェロ·マンジャロッティとのコラボレーション
誰が可動パネルに壁画を依頼
それは、部屋の仕切りとして使用することができます。 同じ年に、
彼はイタリア建築をcollaboratewithし始め
雑誌 "ドムス"。
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写真撮影
写真撮影を使用して、アーティストとして、彼は再発明するために着手した
写真原稿。
彼の写真は、しばしばピントがぼやけたり外に、彼の高コントラスト
印刷されます(彼のネガは、しばしば深刻な過剰露出していた)、
ショックを受けて、高穀物フィルムと広角の彼の使用
確立された写真の世界の秩序と彼
アンチカメラマンの写真家としての名声を獲得した。
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モホリ=ナギとケペスに触発され、彼が始めた
抽象絵画や写真を並置を使って実験。
アレクサンダー·リーバーマン、 '流行'アメリカの画家と監督
クラインのパリジャン彫刻ショーの一つで出会ったクラインと
両方の彼の彫刻(キネティック光パネル上で、魅了されました
感光性ガラス)とクラインは最近まで持っていた写真で
取り始め。 彼はクラインがニューヨークに来るように誘わ
仕事を話し合う。
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ニューヨークに戻り
1954年までに彼は訪問のためにニューヨークに戻りたい気になったと
クラインが到着したとき、リーベルマンは何だろう、彼は彼に尋ねた
本当にやりたい。 彼の答えは、ニューヨークの写真を撮りました
新しい方法で、写真日記のようなものインチ
6年間ヨーロッパに住んでいたアメリカ人として、
彼がハイブリッドになっていた - そして彼にニューヨークは妙だった
外国人。
リーベルマンが合意、流行はこれを可能な資金を調達するでしょう
機能、およびクライン - ファッション写真を撮影したことがなかった
前 - 契約として与えられた、彼の驚きに、またあった
雑誌のファッション写真家。
クラインは言った: "私は民族誌学者を信じさせた。
エクスプローラのようにニューヨーカーを治療するズールー族を扱うでしょう -
零度は、rawestスナップショットを検索
写真の。 '
この本 'NEW YORK'( ' - 人生は、あなたのために良いと良いです
ニューヨーク...)はスキャンダルだった..
原油、 - '流行'は、市内の彼の見解にショックを受けた
積極的かつ下品な - と他の人が、それを見た
写真のように無能な、彼は見つけることができませんでした
アメリカの出版社。
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写真集
彼はパリに戻って仕事を取っていますが
写真の設立は、同様の見解を示した
彼は、フランスの出版社、エディションseuilを見つけることをどうにかして
誰がそれを信じて、1956年にそれを持ってきた
(1995年に再発行された)。 それはまた、イタリアで出版された
同じ年。
クラインの本はナダール賞を受賞しました。
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1960年から1964年まで、彼は他の3冊の本を生産
写真撮影:
'ローマ'(1960)、 "モスクワ"(1964)、 "東京"(1964年);
すべては、生、粗く、旋回まだ殺風景なイメージに満ちている。
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ファッション写真
1955年から1965年までクラインは流行のために働いた。 彼が好ま
通りでまたは場所で彼のモデルを撮影する。
彼は、特に衣服やファッションに興味がなかったし、
reasearch絵はプロセスを作るためにこの機会を利用し
ファッションに新しい技術を導入することにより、
広角の使用や長期焦点を含む写真撮影、
レンズ、フラッシュ、複数を組み合わせる長時間露光
ファッション技術革新の分野におけるエクスポージャー意思
写真撮影。
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フィルム
1965年から80年代前半に、彼は写真撮影を断念し、
主に様々なドキュメンタリーを作って、映画に集中して:
(1958年)、 "光によるブロードウェイは 'あなたはポリーmaggoo誰ですか?" (1966)、
'ミスター。 自由 "、"モハメド·アリの最大の '、'少し
リチャード·ストーリー "(1979)、 '救世主'(1999)。
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撮影に戻ります
クラインによる1980年代の静止画撮影に戻った
彼の初期のwork.his写真の新たな関心
この期間のクローズアップの彼の使用によって特徴づけられる
と広角レンズ。

90年代の間に彼はミクストメディア作品を作り続け
絵画や写真を使用しています。 彼はハッセルブラッドを受け
彼の映画の賞や各種回顧展だった
ニューヨークと日本で開催されました。 彼が受賞しました
agfa-bayer/hugoエアフルト賞やファッションのイン&アウト作成、
図面、写真などを含む混合メディアプロジェクト
ロンドンでのショーと同時に公開された映画、
パリとニューヨーク。 1997年に彼は新しいrephotographed
ニューヨークとバルチェロナとパリでのショーがありました。 1999年
彼は王室によって "世紀の勲章"を授与されました
ロンドンの写真協会 "。
現在彼が住んでおり、パリで働いています。
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近年の個展
ガレ​​リアカルラソッツァーニ、ミラノ、イタリア2000
スコティッシュ·ナショナルギャラリー、エジンバラ、スコットランド、1999
FNAC、パリ、フランス1999年
壮大な馬術学校、モスクワ、1998
ジェーンジャクソンギャラリー、米国アトランタ、1998
プーシキン美術館、モスクワ、1997
サンジェルヴェセンター、ジュネーブ、スイス、1997
カイシャ建国、マドリード、スペイン、1997
deichtorハレン、ハンブルク、ドイツ、1997年
pouchkine博物館、モスクワ、ロシア1997
のhamiltonsギャラリーやイギリスの映画協会(英国、ロンドン)1997
fondazioneナツィオナーレ·デッラfotografia、ト
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by saika123 | 2012-11-26 14:51 | 美術

ロックとファッションとアートな日々

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20代の頃最も影響を受けたのがウィレムデクーニングでした。デクーニングのタッチそのものにやばいくらいに浸透していきました。対象があるのか?対象など問題ではないのか?デクーニングとの出会いによりもっとも具体的にペインティングの方向性を教えてくれた画家のひとりでした!


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「女、無意識への道標」ヴィレム・デ・クーニング 


Willem de Kooning
1904-1997 1904 オランダ、ロッテルダムに生まれる。
192622歳 アメリカに密入国。
1930頃アーシル・ゴーキーと知り合い影響を受ける。
1948 ゴーキーが死亡し転機を迎える。
1950-52 「女・1」を制作する。
195349歳シドニー・ジャニス画廊で「女」シリーズ個展
199793歳
死去
 

「女1」 1950-52


「女1」 Willem de Kooning
1950-52

画面上の「女」のイメージは、作者の恋慕と憎しみの交互の激情に引き裂かれ、またかき集められずたずたにされながらなおも私たちに微笑みかけてさえいるようです。
その肉体はかろうじてもとのかたちを止めていますが、描写というよりは破壊に近い、あまりにも激しい彼のタッチにさいなまれ骨格を消失したかのように画面いっぱいに広がっています。
画家はただ描くアクション行為にその成り行きをまかせ、あえてその激情の噴出を手加減しようとはしていません。かと言って「女」という制作の最初にあった主題を葬り去ろうというわけでもなさそうです。
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「わたしはいつも、若いひと、美しい女という考えからはじめたが、それが変化するのに気がついた。誰かがいつも出てくるのだ。中年女性がね。あんな怪物を作るつもりはなかったのだ」
デ・クーニングは制作の経緯について上のように述べています。彼の制作は、ポロックと同じオートマティズムの手法を取っています。しかし、彼はポロックが捨てたイメージを決して手放さなかったのです。「女」のイメージは彼の制作の入り口でありまた出口でもありました。彼は自らにのみ開かれたその通路をとおって彼の表現の源泉である無意識の世界へ降りていき、また戻ってくることができたのです。
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デ・クーニングのオートマティズム

先ず、デ・クーニングの制作の過程を追ってみます。
彼は最初に「女」という主題をもうけます。それはふと目に止まったピンナップの断片的なイメージを出発点に定めただけかも知れません。
主題と言っても、それはまだ制作に取りかかるきっかけに過ぎません。主題の概念はまだ入り口だけが分かる空っぽの入れ物のようなものです。用意したカンヴァスも主題も空白のままです。彼はその空白の「女」という主題とカンヴァスに、浮かんでくるあらゆる思いを絵の具に乗せてぶつけていきます。
無論、彼は主題を美化してまとめるつもりはないのです。ちょうど、精神分析の自由連想法のように、思い浮かんだままを描くアクション行為に託して画面に重ね、あるいは削りとっていくのです。
制作が進むにつれて、無意識の退行がすすみ、絵はあらぬ方向にむかいます。こうなると、彼にはいつどこに完成が待っているのか検討がつきません。彼にできるのは、自らの無意識が再び自我に統合され、ある納得が訪れるまで、描くアクション行為を続けるしかないのです。気がつくと、彼が等身大のカンヴァスに取りかかってから二年間の月日が流れていました。
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ゴーキーとの出会い


Arshile Gorky
1904-1948
一九二六年、オランダで学業を終えた二十二才の若きデ・クーニングは密かに渡米し、あこがれの新天地で、その現実との落差にうちひしがれながらも、貧困のうちに画家を志します。その彼に大きな影響を与えたのがゴーキー(1904-1948)です。彼らが出会ったのは、一九二九年頃、折しも、大恐慌による空前の不況のさなかでした。後にデ・クーニングとともに、抽象表現主義の両雄とみられるようになるポロックがニューヨークに出たのもちょうどこの頃です。

ゴーキーは同年齢ながらデ・クーニングにとっては父のような大きな存在だった。
デ・クーニングと同年齢のゴーキーがアルメニアから戦火に追われた難民としてニューヨークに渡ったのは、一九二○年、彼が一五才のときです。ゴーキーは若くして肉親を含むアルメニア人の虐殺、 親しんだアルメニアの美術の破壊を目の当たりにしました。おそらくその深い傷を癒すには絵を描くことしかなありませんでした。
彼は、貧困のなか、独学で絵を学んだ彼は二〇才の頃にはすでにグランド・セントラル・スクール・オブ・アーツで教えるようになっていました。彼はデ・クーニングにとっては、ニューヨークでの画業と生活の先輩でした。ゴーキーのアトリエ近くに身を寄せたデ・クーニングは、ゴーキーの画業の足跡をたどるように絵画の習作を繰り返しました。

ゴーキーの表現 


「花咲く水車小屋の水 」1944

「私自分の絵画を通じて、故郷に忠実であると信じている。」と語ったのは、かつてロシアを去りパリを制作の場としたシャガールです。「アルメニアの芸術に満ちあふれたばしょに生まれ、育つことができたぼくは、なんという幸運であり、光栄だろう。」と語るゴーキーはシャガール以上に失われた故郷に忠実でした。彼が重ねるヨーロッパ近代絵画の検証は、失われたヨーロッパの果てしない追体験でもありました。

彼はピカソやミロの方法を踏襲し、彼らの再現性をとどめた絵画の延長上に故郷で開花するはずだった自身の近代を見いだそうとしていました。ただし、それらは彼の切なるノスタルジーをもってしても終焉した近代の方法であることには変わりはありませんでした。
現代都市に身を置く彼には、それらの画風のすべてを取り込み、めまぐるしくそれらを変換しつづけるしかありませんでした。そのめまぐるしい変換は、彼をオートマティズムに近づけ、彼の表現を後の抽象表現主義の成立する地点に最も近い位置まで押し上げていきました。

ゴーキーの死 

四〇年代前半までのデ・クーニングはゴーキーの考え方に心酔し、作品の見分けがつかないほどゴーキーに同一化していました。そのままいけば、彼はゴーキーの影のまま終わる存在でした。ところが、一九四六年、度重なる不幸がゴーキーを襲います。アトリエの火災による作品の消失、癌の発病、交通事故で首を骨折、その後遺症による手の障害、等々。あまりの悲惨さに妻は娘をつれ彼のもとを去ります。一九四八年、ゴーキーは、見舞いに訪れた友人たちを送り出し、アトリエで自らその命を絶ちます。
デ・クーニングは、かけがえのない師であり、朋友でもありながら、あたかも父のごとく彼を導き支配した人物を失います。ゴーキーの死は、デ・クーニングにとっては、上位自我のようにあった人物の死でした。その死は彼にとっては、結果的には、ヨーロッパ近代絵画の呪縛からの解放でしたが、異国の現代都市での精神的なよりどころの消失でした。
ゴーキーの死後、デ・クーニングは、一人アトリエにこもり、用意した等身大のカンヴァスに向かい、「女」の制作に二年の時を過ごすのです。あたかも精神の自己分析であるかのような二年間の制作を終え、彼は自らの自我の統合と新たな表現を手にしました。
デ・クーニングの「女」が、もう一方のポロックの表現とともに、抽象表現主義の幕開けを告げました。

ポロックとデ・クーニングその無意識概念の違い

ポロックとデ・クーニングは、抽象表現主義の双璧と言われています。ポロックが一瞬の集中に全力を傾け、時代を一気に駆け抜けた感があるのに対して、一方のデ・クーニングは、その後の時代のめまぐるしい表現スタイルの変化にも動じることなく、彼の表現スタイルを保ち続けました。
ポロックの一瞬の集中とデ・クーニング持続の違いをたどっていくと、両者の無意識概念の違いに行き着きます。ポロックは、ユングの無意識を取り、自身の無意識に、自然、人類の歴史への通路という過重な意味を負わせました。その過重さが、彼が自殺とも取れる事故で世を去る一因となりました。
一方、デ・クーニングの取った無意識は、フロイトのそれでした。「女」という主題をたどる制作は、ちょうど彼の母子関係に焦点を当てた自己分析の位相にあります。彼が無意識に投げかけた主題は、言わば彼の無意識の等身大のおおきさとしてありました。そのため、彼は破綻することなく制作を持続できたのです。
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相違する二人の無意識

デ・クーニングにとって、制作は、自身の無意識への通路でした。彼は二年間におよぶ「女」の制作によって自身の固着 のありかをつきとめ、彼の固着にまつわる、ことのすべてを理解したのです。抑圧されていた固着は苦痛の源でしたが、彼にとっては同時に、イメージが沸き上がる表現の源泉でもありました。彼はすでに解消した固着を捨て去らずそのイメージを表現の源泉として温存しました。  かつての固着点は苦痛の震源であることを止め、言わば、デ・クーニングの制作がたどり着く母港のようなものとなりました。その後の彼の制作は、そこに至る無意識の迂回路をさまざまに作り出せばよかったのです。彼自身がその制作を「俗悪のメロドラマ」と呼ぶように、筋書はちがってもたどりつく結論はいつも同じです。おそらく、日常から表現への没入も、表現から日常への帰還も、ポロックのように過剰な緊張や苦痛を強いる困難なものでなかったのです。入り口と出口が知れた自身の無意識を、彼は易々と出入りしました。

一方、ポロックの無意識の固着点はあまりにも強大な両刃の刃でした。彼の固着は表現の源泉でしたが、その直視は自身の存在危うくするものでした。ポロックには、彼の無意識への没入が世界の無意識へとつながるいう意義づけ、自身の拡大解釈が必要でした。その設定は現実の彼の渇き、みじめさを隠し、彼を巨人のごとく尊大にさせましたが、当然、絶えず現実から覚醒をせまられる虚構でした。ポロックは自ら設定した虚構と現実の落差にさいなまれ、固着をますます強大にさせ、それに抗い切れず破綻をむかえます。
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内面から噴き上げる憎悪

デ・クーニングの抽象表現主義は憎悪の表現です。彼が主題を「女」と定めて制作アクション行為に向かう時、彼の内面から噴きあがりその主題を満たすのは憎悪でした。それは単に「女」への憎悪だけに止まらず、自分自身に対する憎悪、自身の欲望に対する憎悪、自身を取りまく世界への憎悪でした。彼はそれらを描くアクション行為にのせて存分に噴き出させます。デ・クーニングのオートマティズムによる制作は、憎悪の噴出の大集合となりそれが一区切りした時が終りです。
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近代の憎悪の表現、例えばムンクの「叫び」は、まだ自然に囲まれた近代の都市での人間が圧迫される自然の叫びです。一方、デ・クーニングの憎悪の大集合のは、現代都市のシステムによって生身を管理され、すでに無個性化の道を歩まされる人間の、後もどりのできない怒りの叫びと言えます。
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アメリカの現代都市は、扇情的であでやかな「女」のイメージに満ちています。
しかし、雑誌やマス・メディアにあふれるそれらのあでやかなピンナップは記号という虚像に過ぎません。人々から生身をそぎ落とし自身の効率化をすすめる都市のシステムは、一方では、あでやかな生身の典型をフィクション、つまり記号として大量に人々に差します。
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「私はいつも俗悪のメロドラマに包まれている」と彼が言うように、デ・クーニングは、ピンナップの「女」からそぎ落とされ、その裏側に押し込められたはずの、生身の「女」を憎悪のアクション行為で探り当てようとします。彼は、そこからなおも歩を進め、都市のシステムが私たちから収奪した生身の残がいを白日のもとにさらすことで現代都市を批判し、自己回復をはかろうと制作を続けます。
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20世紀アメリカ現代美術作家論
「アメリカ現代美術は何を残したか」 河瀬 昇 より
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by saika123 | 2012-11-26 14:22 | 美術

ロックとファッションとアートな日々

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金子圀義

グラフィックの世界観で金子の仕事がきになったのはずいぶんと早い時期だった。金子の描く女性がすきになったのがきっかけだった。はじめに妙なヨーロッパ的であり、アンティークな雰囲気を感じたんだ。日本的な世界観ではなかった。妖しいエロティックな世界は子供の頃の僕を刺激した。

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by saika123 | 2012-11-25 14:43 | 美術

ロックとファッションとアートな日々

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祭典の日(奇跡のライヴ)デラックス・エディション(2CD+BD+ボーナスDVD) [CD+Blu-Ray]

伝説のロック・グループ、レッド・ツェッペリンが、2007年12月にロンドンO2(オーツー)アリーナで行った、たった一夜限りの奇跡的な再結成コンサートの模様を収録。
2007年12月10日、伝説のロック・グループ、レッド・ツェッペリンが、ロンドン、O2(オーツー)アリーナで行われた、アトランティック・レコードの創設者アーメット・アーティガンのトリビュート・コンサートのヘッド・ライナーとしてステージに登場。バンドの設立メンバーである、ジョン・ポール・ジョーンズ、ジミー・ペイジ、ロバート・プラント、そして80年に亡くなったドラマー、ジョン・ボーナムの息子ジェイソン・ボーナムの4人は、「胸いっぱいの愛を」「ロックン・ロール」「カシミール」そして「天国への階段」などの伝説のバンドの真骨頂とも言えるクールでロック・スピリット溢れるナンバー16曲を次々に披露し、2時間以上にわたり圧倒的なパフォーマンスを行った。
これは、全世界2000万人の応募の中から選ばれた、わずか18,000人の幸運なファンのみが参加し、現在もその内容が語り継がれている、まさに伝説のバンドが行った幻のコンサート。そして、誰もがこの瞬間を待っていた、待望のパッケージ発売!!

夢にまでみた再結成のライブ!彼らのこの映像は発売前の映画館でのナイト上映でも観てきましたが、涙、涙の感激ライブでした。亡き、ジョンボーナームの息子であるジョナサンボーナムがドラムを担当しているわけですが、20年以上前に一度再結成したときもジョナサンがドラムを担当していましたが、その頃より断然うまくなっていたジョナサン!まるでお父さんがのり写ったように思って映像を観ていたのは僕だけだったでしょうか?とにかく、こんなアルバムが発売されるなんて夢のようなことです!録音がイマイチですが!!

◎こちらは2CD+BD+ボーナスDVD(日本盤のみ字幕付き)
※5形態で発売(1:2CD+BD+DVD,2:2CD+BD,3:2CD+2DVD,4:2CD+DVD,5:2CD)

収録曲
(Disc 1) 1.グッド・タイムズ・バッド・タイムズ/2.ランブル・オン/3.ブラック・ドッグ/4.死にかけて/5.フォー・ユア・ライフ/6.トランプルド・アンダー・フット/7.俺の罪/8.ノー・クォーター/9.貴方を愛しつづけて
(Disc 2) 1.幻惑されて/2.天国への階段/3.永遠の詩/4.ミスティ・マウンテン・ホップ/5.カシミール/6.胸いっぱいの愛を/7.ロックン・ロール
(Disc 3) 1.グッド・タイムズ・バッド・タイムズ/2.ランブル・オン/3.ブラック・ドッグ/4.死にかけて/5.フォー・ユア・ライフ/6.トランプルド・アンダー・フット/7.俺の罪/8.ノー・クォーター/9.貴方を愛しつづけて/10.幻惑されて/11.天国への階段/12.永遠の詩/13.ミスティ・マウンテン・ホップ/14.カシミール/15.胸いっぱいの愛を/16.ロックン・ロール
(Disc 4) <ボーナスDVD>1.ボーナス映像
メディア掲載レビューほか

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しかし、2007年のライブではジミーペイジ以外、ステージ衣装がダメダメ!!さすが、ジミーちゃん、久しぶりの最結成で気合いがはいっていたのがわかりますよ!!そして今回もこのアルバム発売のために来日もしました!ジミーちゃん、気合いはいってるしこのライブ映像でもどれだけジミーちゃんが気合いはいってるかがわかりますよ!!

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今年、来日したジミーちゃん!!カッコイイ
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by saika123 | 2012-11-24 09:39 | 70年代ロック

ロックとファッションとアートな日々

まだフランス製だった80年代の初期から愛用しているパトリックのスニーカー。現在では日本製となりましたが、ナイキやアディダスなど有名ブランドは中国やアジアで生産されているのに対しパトリックは日本製というだけでもかなり価値があります。というのは、靴のつくりが他のメーカーとは違いがありますね。そういうわけで、どんな安売りの靴屋でもパトリックだけは安くないんですよ!このリバプールは不滅の名デザインで履き壊しては今でも買い替えているほど大好きなデザインの1つです

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PATRICK
LIVERPOOL (MINT / MADE IN FRANCE)

パトリックの定番、リバプール。
原型はサッカーのトレーニング用シューズだっただけあって、足にピタッと添う様な細身のシルエット。
調べてみると、80年代前半フランス代表のプラティニ選手のトレーニングモデルとして登場したとの事。
ミュージシャンのスティングも愛用しているらしいです。

それ以外はソールの減りも無い、ミントコンディションです。
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by saika123 | 2012-11-20 09:05 | 70年代ロックファッション

ロックとファッションとアートな日々

ナイキのエアジョーダンが最初に発売されたのは1985年でした。当時20代の中頃だった僕はスニーカーが正規で¥18000ほどの値段がつくとは驚きでしたね。ジョーダンは本当に冗談でしょって思える程、現在にいたるまで発売されていますが、やはり85年に発売されたこのデザインが一番かっこいいですね!何度かジョーダン1は再発されましたが、どうも再発って買う気になれないのは僕だけでしょうかね?

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エア・ジョーダン(Air Jordan)は、スポーツ用品メーカーのナイキ社から発売されているバスケットシューズ。名称中の「エア」は同社が有するソール用のエアクッション技術を用いた運動靴シリーズであることを意味し、シリーズ名としての「ジョーダン」はNBA選手マイケル・ジョーダンとのコラボレーションであることを意味している。また、マイケル・ジョーダンのニックネームがもともと“エア”であった(ジャンプの滞空時間が長かったことによる)ことともかけている。略称「AJ」。
もともと上記の通りバスケットボール用のスニーカーとして発売されたのだが、NBAおよびバスケットボール自体のスポーツとしての人気やマイケル・ジョーダン本人の人気、ストリートバスケットやストリートファッションの流行、商品が持つ優れた機能性とデザインなど、様々な要因によってバスケットボールの選手であるか否かに関わらずヒット商品となった。 1985年の発売開始以降、エア・ジョーダンはシリーズ化され、デザイン変更や機能強化といったモデルチェンジを繰り返しながら20年以上にわたって開発・販売が続けられている。
一方でその人気から、90年代初め頃からシューズを巡っての強盗や殺人、営利目的の悪質な転売行為などの問題も発生している。
1999年以降、現行モデルと並行して以前のモデルをランダムに復刻して発売しており、オリジナル発売当時には無かった配色や素材のバリエーションを増やしている。
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by saika123 | 2012-11-20 08:56 | 70S'ファッション

ロックとファッションとアートな日々

スニーカーしか履かない!と言っても過言ではない僕ですが、特別に革靴やブーツなど嫌いというわけではけしてなくて、どうもスニーカーしか子供の頃から履いていないということが正しいかもしれません。スニーカーへの愛着とこだわりは、すでに小学生の頃からあって、母親が買ってきたスニーカーは子供の頃はすでに履かないというこだわりがありました。はきごこちよりデザイン重視でした。そういう僕は、あの80年代のDCブランドブーム時期もバブル時代もずっと周りなど気にする事もなく、スニーカーひとすじで過ごしてきた一流のスニーカーマニアでもあったんですよ


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adidas nippon(アディダスニッポン) スニーカー 中古 60年代


60年代頃のアディダスニッポン・レザースニーカーです。
西ドイツ製のヴィンテージアディダスです。
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by saika123 | 2012-11-20 08:48 | 60年代ファッション

SAIKA初個展

いよいよ、今度の火曜日に初の個展を開催する日が近づきました。準備も終わりにさしかかり本番まであと3日!緊張する

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2012年11月20日、21日 AM10時〜PM9時

場所 渋谷 ギャラリーTOM


アクセス
〒214-0011 東京都渋谷区松涛2-11-1
電話: 03- 3467-8102 ファックス: 03-3467-8104
京王井の頭線神泉駅より徒歩6分

SAIKAの画業39年における初の個展の開催です。新作を含む100展以上の作品が展示即売となります。また、併せてSAIKAの膨大なヴィンテージコレクションも展示販売されます
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by saika123 | 2012-11-18 08:37 | SAIKA

ロックとファッションとアートな日々

ファッションにしろ音楽にしろアートにしろ、自分にとってなにがかっこいいと感じたのかを子供の頃からストックしてきたのだと思う。脳の引き出しに、そういうものを収集しては溜め込んできて、いっぱいになったら、また新しい引き出しを用意してまた新しいストックをしてきたんだと思う。一般的にはいらなくなった情報や古くなってしまった価値にないものは捨て去り、常に新しい情報だけを脳に管理しておけばいいのに、僕は捨てずにストックしてきてしまっている。ようするに溜め込んだものは脳
の中で管理され、必要なときに取り出しできるように整理だけはしているのだと思う。




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by saika123 | 2012-11-17 12:36 | 70年代ロックファッション